人材グループ自在会をサイト宣伝に利用:創価の森ウォッチ100

( 初出 2014/2/5 )

時間がなくて閉鎖したはずの菊川さんが
自在会の方とのコミュニティブログとして新ブログを設立されました。
なぜか「創価の森通信Freedom」としてブログ村の仏教カテ創価カテに登録
しなおされています。
http://sokafree.exblog.jp/index.xml

このブログは「ひらがな御書」ブログをリニューアルしサイトにする際の
情報収集ブログとして計画されたものらしいです。
視覚障がいの方は、どこにでもあるブログのような「フレーム」があるサイト
を音声ソフトで「聞いて」おられるわけですが、フレームはあくまで目が見える方の
便宜上の装飾なので、音声ソフトで翻訳する場合少々不便なのだそうです。
とはいっても、菊川さんのブログ常連の千早さんは時間がかかるかもしれませんが
問題なく使いこなして、コミュニケーションをとっておられます。


さて、私が悪質だと感じるのは2/2日付けの聖教新聞の記事を利己主義のタイトル
をつけて内容を要約し自分が同じく自在会を支えているかのように記事に加えている
事です。
菊川さんが取り上げられた体験談は、視覚障がいの同志のために点字翻訳を40年
もの間されておられる婦人部さんで自在会のメンバーさんではありません。

この体験談の導入部にはこうあります。

※大阪市の関西文化会館に、一人の婦人が訪れる。
 手には、何か冊子を携(たずさ)えていた。
 “これを目の不自由な方のために・・・・・・”
 聖教新聞に掲載された池田名誉会長の指導を点字に翻訳したものだった。
 (以上引用)

つまり彼女は、自分の使命を自らの「現場」で長年はたしておられるという
一番大事な所をおさえずに、菊川さんは掲載しているのです。
ネットで結託しているオトモダチがまるで菊川氏が行っている事と同義といわんばかり
のコメントを書き寄こされてねています。

点訳をされている婦人部さんは、小説「人間革命」・「新・人間革命」を主に点訳されて
おられるのですが、完成した点訳を関西の中心会館である「関西文化会館」に持参
されているのです。
個人の家で公開されているわけではありません。
またこの婦人部さんは94歳のご高齢であるにもかかわらず、40年以上ものあいだ、
現在でも自らの使命として継続されているそうです。
菊川さんは現場で自在会の担当役職についているわけでもなく、自己満足で
ネットに自在会の方を巻き込んでいるのとは根本的に全くちがいます。

菊川さんの目的は、聖教新聞で紹介された大先輩がされている事と同じと言われる
かたもおられるかもしれませんが、自分のブログやサイトの応援をさせている菊川さん
とまったく趣旨もちがいますし自在会の方の現場での活動や「研鑽」の機会をも奪い
かねない点では、容認できるようなものではありません。
特に、勝手に人材グループを連呼して協力者を募るその責任実行力のなさはいかがな
ものでしょう。

そんなに「人の為」に動きたいのならば、菊川さんの現場にも視覚障がいをおもちの方も
おられるでしょうし、現実問題としてブロック長たる菊川さんがまず手をさしのべるべきは
菊川さんのブロック・地区・支部のかたではないでしょうか。

大白蓮華2月号の「質問会」コラム(16ページ)に各部の団結がうまくいかない」という
質問を受けられた池田先生は、以下のように指導されています。

「自分の頭で考えて、自分の力が絶対だと思って、自分だけで判断して、
 いろいろな事を皆に言わないで、相談しないで、進めていくということは
 いけないことである」

菊川さんは、視覚障がいの方(自在会)の為と繰り返し言いますが
自在会の責任者に相談されたのでしょうか?千早さんの所属される
地域の自在会の方に話しを通した上で、個人のブログやサイトの運営に
手を取らせているという事実を支部長や本部長に相談されたのでしょうか。

もしされていないというのであれば、「個人」が賞賛を獲たいがための信心利用で
しかありません。

奇しくも、上記体験談が掲載された2/2付けの聖教新聞には池田先生の新しい指導が
掲載されていました。

◎ ただ師と共に!
   同志の為に! 
  最前線で戦ってきた。
  誉れ高きブロック長、しらゆり長も、後継の男女青年部も、
  学会を支える支部長、支部婦人部長も、美しき団結で
  新たな前進を開始しよう!

( 名誉会長と共に新時代を開く⑤ :さあ最前線へ!青年の心で より抜粋)



いい加減に「私事」にネットを通じて同志を巻き込むその姿勢を現場第一主義に
戻すべきだとおもいますが、皆さんはどうおもわれたでしょうか?
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共倒れで良いのでしょうか?:創価の森ウォッチ99

( 初出 2014/1/29 )

自在会の千早さんのブログに以下の記事が掲載されました。

※菊川さんが今、一生懸命に、私たち自在会メンバーのための新ブログを
 作るためにパソコン教室に通ってホームページ作成の勉強をされたり、
 本も何冊も読んでネット作りの勉強されたり、視覚障害関係の本を
 いろいろ読んだりされて、お忙しい中、すごくがんばってくださっています。
(略)
菊川さんが池田先生の弟子として誓って進めてくださる新ブログです。
きっと読者にもその魂が共鳴して触発されていくに違いないと信じます。

 自在会お役たちブログ準備中!
http://harutonaru.at.webry.info/201401/article_8.html


/////

創価の森の小さな家のブログ主菊川広幸さんが、千早さんの自己研鑽を手伝う
はずが、いまや千早さんは完全に菊川さんに頼りっきりになっておられるようです。
この記事が公開された同日に、コメントを投稿させていただいたのですが
表示されず、それよりも後日に投稿された「ちよ」さんの投稿を公開されましたので
私が投稿させていただいたコメントをこちらで公開します。

(以下転載)

千早さんは菊川さんに頼り切ってしまっていませんか?
ソフトを買ったり実費を支払ってパソコン教室に通われたり
書籍を買われたり、忙しい中時間を割かれたりしておられます。
ご本人は学会活動の時間がおもうように取れないと、なやんでおられるにも
関わらずです。
千早さんが視覚障がいをお持ちだから「あたりまえ」のようにしてもらえると
考えているのなら、結局千早さんが同志を利用している事になりませんでしょうか。

菊川さんの親切心は悪い事ではないですが、まったく所属される組織の違う方に
一方的に負担を強いることになっているのはいかがなものでしょう。
また千早さん自身が、最近御書に関する自発的なお勉強をされていない事が気になります。
もともと千早さんの意志で、自ら御書を学ばれていたのが
最初ではないでしょうか。

いまいちど、現在の状態を見直してみるべきではないでしょうか。
「自在会である」事の意義は、健常者の学会員さんに便宜をはかってもらうための
グループなのでしょうか。

わたしは全く違うと思います。

池田先生の指導を引用させていただきますね。

自分の立場がかわいい、自分の会社がかわいい、境遇がかわいい、そのために学会を
足げにする人がいれば悪人です。どこかで罰を受けます。
そうなってはいけません。
戦いの第一線に立っては、自分が創価学会を代表している、と自覚をしていただきたい。
その人の功徳は大きい。
(壮年部全国大会:昭和41年8月3日)


「足げ」というのは、してもらって当たり前のようにかんがえる傲慢さのことだと思います。
以前のコメント内での「甘えずに」というのは、千早さんが障がい者であることに甘えず
にという意味も含んでいます。
千早さんの身の回りに、御書を音読してくれるひとや講義してくれる人が全くいない
はずがありません。
あなたはネットを通じて楽をして、誰か自分に都合の良い他の学会員さんを探す
つもりで、ブログをはじめられたのでしょうか。

もう一度初心にかえられるべきだと思いますよ。

(以上)

拙ブログでは、一昨年に千早さんが独学で志されていた御書を、菊川さんが横から
割って入る形で主従関係のように表現されている事を批判させていただきました。

創価のブログ:ネットでの共同作業について 
http://captivated.exblog.jp/16723897/


気がつけば、子供が流行のゲームソフトの発売を心待ちにしているかのように
千早さんは菊川さんの「ひらがな御書サイト」が公開されることのみを待ちかまえ
すっかり自ら御書を研鑽する気概をうしなっておられるように思えてなりません。

勢いで、仕事をうけおってしまったものの数編の御書をひらがな表記した段階で
行き詰まり、菊川さん本人だけが労力や経済的負担までされている状況を
「感謝」の一言で済ませてただ待つだけで良いのでしょうか。
師匠の指導をだすまでもなく、戦いの最前線とは、今いる場所であることは
論をまちません。

たとえご本人が御書の拝読をなんども挑戦されようが、1000万遍の唱題をされようが
自分の地域での学会活動をおざなりにして達成したものであれば、意味がありません。
また、千早さんが遠隔地の菊川さんに頼り切って、自分の地域で御書を学ぶ機会が
減ったり、対話をされていないのであれば、これもまた意味がありません。

誰かに頼られる事は光栄なことではあるでしょうが、本分を忘れ出来ることまで
請け負う事で相手の為にならないこともあるのです。
自分の願いを叶えてもらうことは嬉しいとおもいますが、相手の犠牲や負担を承知の
うえで実現させても、いずれ信心がおかしくなってくることは確実です。

だからこそ師匠は、同志の善意にすがったり、人情に訴えるような組織利用を
厳しく戒められているのです。

千早さんの周りにはたくさんの同志や家族がおられます。
それと同じように菊川さんの周りにもたくさんの同志や家族がおられます。

なぜネットで知り合っただけの「都合の良い人」にばかり頼ろうとするのでしょう。

このままでは、信心の共倒れになってしまいます。
またこのような前例を放置しておく事でマネをする人がでてくれば組織分断に通じます。

自分の過大な期待を他人に求め、人を動かそうとするのは、直ちに止めましょう。

誓願は本来御本尊様(仏)と自分との間で交わすものではないでしょうか。















懲りない菊川さんブログを新設?:創価の森ウォッチ98

( 初出 2014/1/23 )

閉鎖されたはずの「創価の森の小さな家(本館)ブログが、まだこっそり更新を
続けているようです。

コメント受付停止をすると、蓄積されたコメントが消えてしまうことから記事を更新
しない形での存続がされたはずでした。
ところが閉鎖宣言から一ヶ月もしない間に、「ひらがな御書」へのリンク記事が
何度か更新され、本日(1月22日)書き込まれたコメントに対して早朝から返信が
返されていたのです。

※尚、このブログは昨年の年末に5年間をもちまして、終了しました。
 2月1日より、次のブログをスタートします。
 その新ブログは、<別館>にてお知らせします。

(2014-01-22 06:42 付レスコメントより引用)
http://sokanomori.exblog.jp/18494533/


ブログ終了直前後は、肩の荷がおりたらしく心の余裕ができた等と管理者
として読者対応に忙殺されていたことを告白され、ブログ別館の更新頻度も
少なかったのですが、「ひらがな御書」をHP化するために自費でパソコン教室
に通いだしたあたりから、また日常の報告が再開されはじめました。

新ブログは、創価学会の視覚障がい者さんの人材グループである「自在会」
専用のブログだという記事が「別館」のほうに公開されていました。

※追伸:かねてより申し上げていました「自在会用ブログ」の制作を開始しました。
 正式には、2月1日オープンを目指しています
http://sokamori2.exblog.jp/d2014-01-22/
[#IMAGE|a0212032_1472267.jpg|201401/23/32/|mid|460|170#]
(画像はブログ記事からの引用)

かねてよりと書いておられますが、該当するブログ記事はみあたりませんでした。
またコミュニケーション目的のブログを開設されるつもりなのでしょう。

それにしても、創価の森別館での日常の記事とやらが「菊川さん本人」がなにかを
された時にのみ動いているところをみると、年末年始にかけて信心に関する本人
の話題が全くなく、コメントの返答や来るべき新サイト、ブログの事で手一杯なの
ではないかと心配になります。

かつてブログを通じた友から野菜を貰ったことを契機に、自分も野菜を
作ってみようと思い立ち、奥様とその知人まで協力してもらって、「菊川農園」
と銘打ちはじめたものの、上手く耕作できる見通しがつかなくなるやさっさと
放り出してしまった優柔不断さが、また現れているのではないかと心配に
なります。

よく言えば、失敗を引きずらず切り替えが早いといえるのですが、
悪く言えば、飽きっぽい。
自分の趣味の範疇に他人を巻き込んで、いまひとつ盛り上がらなくなると
「もうやめます」との撤退宣言を何度繰り返してこられたでしょう。
一つのことを年月をかけてコツコツ仕上げるのが嫌いなのかもしれません。
もともと仕事も忙しく現場の学会活動も思うままにならなっておられないはず
なのに、ネットコミュニケ-ションでの「縁」を契機としたアイデアの実行
に時間を割き優先させようとするのは、何故でしょう。

菊川さんが力をいれなければならないのは、まず「時間革命」だと思います。
学会活動よりもネットの案件を精力的に優先させているのは現実逃避ではない
のでしょうか。

池田先生の「仕事と学会活動」に関する指導を引用させていただきます。


◎よく仕事が忙しいから学会活動はできないという人がいるが、その忙しいなかで、
 なんとか時間をつくって学会活動に参加しようとする、その一念、その努力が
 福運を 積み、大功徳を生むのである。
 忙しくてできないという人は、それでは時間があるときに真剣に活動するかというと、
 必ずしもそうではない。すなわち、その忙しさも、往々にして環境に負け、心の
 ゆとりを失い、ただ惰性とカラ回りに終始した姿である場合が多い。
 計画を立て、時間を生みだし、その間、学会活動に邁進することは、これまでの
 惰性を打ち破り、新しき活力を生活のうえに発揮していく源泉となる。
 そこにこそ、未来と希望と前進があることを知っていただきたい。

「信心の第一歩」昭和41年11月1日~ 池田会長全集4巻  巻頭言・論文集より 



現場からどんどん離れてネット活動に熱をあげている姿をみると
「惰性とカラ回り」ではないかと危惧します。
おもいのままに学会活動できない代わりに、ネットで現場の人材組織の看板を
かかげ、自分勝手のコミュニケーションに巻き込もうとしているのであれば
池田先生の指導から外れてしまっているといえるのではないでしょうか。

中身がよくみえないうちから一人で企画し盛り上げようとしていく様子は
東京都知事選の、細川元総理のようで、なんだかしっくりこないとおもうのは
私だけなのでしょうか。



やっぱりブログはやめられない:創価の森ウォッチ97

( 初出 2013/12/31 )

更新を停止し閉鎖することを宣言したはずの「創価の森の小さな家(本館)」
ブログ。
それなりの読者からのコメントをあつめて年内いっぱいで終わるはずで
したが、(別館)の記事によると、継続をするそうです。
理由はエキサイトブログでは「コメント欄を閉鎖するとコメントがみられなくなるから」
だとか。
それならまだしも、コメントを書いてもらったのに反応をしないのも悪いので
別掲記事であつかう事があると宣言していました。


※そこで、基本的には拝見しつつ公開しないのですが、場合によっては公開し反応するという“あいまいな管理”にならざるを得ません。

http://sokamori2.exblog.jp/21745550/


そうです、菊川さんのネットでの行動はいつだって「あいまい」なのです。

気軽にブログを始められた方はともかく、続けていくうちにブログの
存在意義をコロコロかえていく人がいます。
最初は気楽なコミュニケーションが気がつけば、お悩み相談室になっている。

そういった人は、うつ傾向の人にありがちな「役割アイデンティティ」に
縛られているように感じます。
役割アイデンティティとは、なにかの役割を自分に課すことで社会に対する
自己の存在意義を高め、自尊心を満たそうとする心理のことです。

社会においてなにがしかの役割が与えられているなら、そえなりの意味も
あるのですが、リアルで「居場所がない人」ほどネットのような環境では
「役割」を果たそうとするケースもあるのです。

たとえば、「ボクはうつだったのでうつの人を助けてあげなければならない」
という動機づけ。
これが創価学会員になると
「ボクは信心で苦労をして、ある程度吹っ切れたから困っている人を助けて
 あげなければ」という考え方になります。

一見すると、ボランティア精神にあふれているかのようにみえますが
他者に依存をする形での「役割」を自分で勝手に造り上げているだけです。

じつは存在意義をみとめてもらって満足しているのは他ならぬ自分です。
また、代わりブログを存続させコメントを受け付け、月下の騎士で失敗した
「信心相談室」まがいの組織外活動をはじめるつもりだとか。

この悪循環が顕著にあらわれているケースが「ひらがな御書」だとおもいます。

もともと視覚障がいをお持ちの「千早さん」という学会員さんがはじめられた
自己研鑽の為の行為だったのですが、菊川さんが一人で感動しネット上での
役割を半ば強引かつ勝手に引き受けて、共同作業という形にしてしまった
のです。

さらには、後から参加しているにもかかわらず、自分がリードをしていく
ような物言いをしている事に拙ブログでも批判の記事を書きました。

【内】創価のブログ:ネットでの共同作業について 創価の森ウオッチ57

目的意識が高くても、それを実現するノウハウがない事を痛感した
菊川さんは、ブログ形式ではなくサイトを開設する事にしたそうで、今から
パソコン教室に通って「webサイトの作りかた」を学ぶのだそうです。

しかし、よく考えてみてください。
その間、視覚障がい者の「千早」さんは待たされてるばかり。
肝心の御書のくだし文は、菊川氏に依存してから行われていません。
気がつけば「ひらがな御書ブログ」の更新も滞り、三ヶ月後に新しいサイトを開設
するまで放置するようです。

いつまでたっても、迷惑をかけても「独善」主義の人は、自分の体裁をまず
先に考えるものです。

勝手に役割を買ってでておいて、自己都合で人を待たせた結果
共倒れ状態になってしまっているのが現状ではないでしょうか。

早稲田大学名誉教授 加藤諦三の最新の著作
「人とモメない心理学」で
「リアルで居場所のない人に役割を与えてはいけない」と提唱しています。

この主張には私も同感です。

やめたいはずのブログが、やめられない。
なぜならコメントを寄せてくれる人がいるから。

いつのまにか、コメンターさんにブログ継続の責任をおしつけている菊川広幸さん。

まず、縁に触れて紛動される生き方をあらため身を固めるべきではないでしょうか。

ネットは便利!でもヤバイ・三猿運動の本質:創価の森ウォッチ96

( 初出 2013/12/8 )

最近記事を更新されていないイプシロンさんのブログ。
でもよく見ると、コメント欄でオトモダチがあつまって、彼を慰めていました。

ちよさん曰く
「空気と言うより、私たち繋がっていますので、ご心配なく」
イプシロンさん曰く ちよさん、
「電話でよく話しているので、リコメはいいですよね(笑)
 ということで、あべひさん、まったく心配いりません」


(引用元=イプシロンさんブログ「結局は人の揚げ足取りでしょ」のコメントから) 

なるほど。イプシロンさんも電話でちよさんとつながるそうですし。
結託(あらかじめ、しめし合わせること)していたわけですね。

典型的な共依存コミュニケ-ションの関係にはいってしまったと言えるでしょう。。

「ネットのおかげで同志とつながりができた」という事と
それが、本当にイプシロンさんの為になるのか、はまったく別問題です。
最近、お隣の韓国や日本でもスマホによるネット依存が低年齢化して
きた事で話題になっています。
いい大人でも、気休めのネット利用にハマる人がいるのですから
「おもしろいこと」が大好きな子供ならなおのことでしょう。

共通の話題で集まった集団ですがリアルのつながりとなにがちがうかと
いうと、なにを言っても行ってもある日突然連絡を絶ち姿をくらまして逃げる事が
可能な事でしょう。
ネット詐欺や電話による詐欺が増加しているのも、犯人が特定されにくいと
いった理由が挙げられます。
つまり、なにかをしようと考えている人が「責任回避」がしやすい場所といえるの
です。

たとえそれが、創価学会員同士のネットコミュニケーションといえど、
リアルの学会組織とは全く異なります。
学会活動ではない事柄を学会活動(または学会活動の延長)などと考える
事自体が不自然極まりありません。

また、自分の批判は正当で、相手の反論は難癖または揚げ足という下し方は
日顕宗とかアンチがよくやっている
「そもそも創価学会には日蓮正宗に対して発言権などない。
なぜなら創価学会はもともと日蓮正宗だったから」と印象操作するのと本質が
同じです。

例えば、私は、はた京阪さんの掲示板をお借りしていますが、だからといって
内々に連絡を取り合っているわけでも慰めあっているわけでもありません。
もともと、はた京阪さんとは富士宮ボーイ掲示板で議論を交わし合ったのが
最初です。
だからといって彼を恨んでいたり怒っているわけでもなんでもありません。(笑)
対立する意見を交わし合ってお互いに納得した所から、再度、自分の言論活動
として意識を切り変え、現在の状況になっています。
お互いがエキサイトブログなので、メールを交わす事も可能ですが
そういった打ち合わせ(結託)も、必要としていません。

中には私がはた京阪さん掲示板に厳しいコメントを寄せる場合もあるのですが、
それははた京阪さんが表示するかどうかを決める事ですし、彼に伝わっているの
なら問題ないと考えています。
では結託をするとなにができるのでしょう。
リーダのハッキリみえない「ネガティブキャンペーン」です。
「いいよね」「そうだよね」「どうすればいいの」「無視するんだよ」と慰め合う表面上の
結託と団結は似て非なるものです。

実際に学会系ブロガー複数人で行われた「ネガティブキャンペーン」の例に
菊川広幸さんの提唱した「三猿運動」があげられると思います。
三猿運動は一見するとブログ運営における「批判に我関せず」の妥当な解決策
のようにみえますが、ここに落とし穴があります。
一番の弊害は、批判に対して無視を決め込んだものが智者のように扱われ、
代わりにオトモダチが無視を決め込んだ者の代弁者となり、その代弁者に「智者」と
化した者が「ありがとう」「よく解ってくださる」等とお慈悲を送りつづけることで
他の学科員さんを自分に有利な「駒」として扱っている事でしょう。
代弁者が複数人いれば、三猿運動提唱者は個々に批判を展開する必要が
ありません。
「智者」は仲間内でちょっと不快感を示すだけで、代弁者が相手になってくれます。
自分はイヤな思いをすることなく、汚れ仕事を「同志」にさせる。
三猿運動の本質とは、結託による責任分散といえるのです。

同志を重んじているようで軽視しているとしか私にはおもえません。

そういった、お互いの便宜を図る為のみに結託をする事は
組織利用とされ創価学会において、厳しい指導がいくつかあります。

※そして、なにかと自分に便宜を図ってくれるような人ばかり取り立てて、
 周りに集める。
 その結果、信心で結ばれているはずの学会の組織が、“親分・子分”のような、
 歪んだ関係になっていく。
 それは、組織利用です。仏意仏勅の団体である創価学会を内側から蝕む、
 師子身中の虫に等しい行為です。

( 小説 新・人間革命 共戦 57 )



ちよさんブログに感化されコメントを投稿された大野武士さんや、うるとらまんさんは
「ちよさんがネットコミュを創る事でなにか悪い事をしているのだろうか」
と疑問を呈されています。
「むしろ、集まっている人は喜んでいるではないか」と言うのです。
おそらく、同じように考えている学会員ブロガーさんは多いのではないでしょうか。

しかし、ネットコミュでの効用に注目するまえに、現場の活動内容を振り返ってみて
ください。

なぜ創価学会では人材育成や異体同心の団結強調しているのに、
「好き者同士であつまった」人材グループがないのか。
自分が気に入った他支部・地区で活動させないのか。

是非思慮をめぐらしていただきたいものです。


コミュニティに潜む「我見」の罠:創価の森ウォッチ95

( 初出 2013/11/30)

ブログに限らず、人が集まると、ある特定の人がリードをする形でコミュニティが形成
されるという事があると思います。

自称学会員コミュの場合、集団を構成する人達の場合を考えてみましょう。
教学が堪能にみえたり、信仰体験をお持ちで信心深そうな人を中心にマメに
コメントを入れたり、あちこち出向く世話見のよい「世話役」とただただ中心者
と世話役の意見に同調し、反論する事に抵抗のある「追従者」といった構成
になっているはずです。
ブログ村のようなランキングサイトのカテゴリー内こういった集団(コミュニティ)が
できあがると、ブログ主同士やお互いの常連コメンターがポイントクリックをしあう
ことで、そのブログのランキングが上がります。
なぜ解るかといえば、ブログランキング上位三人のポイントを比較できるからです。

一例として、 イプシロンさんブログ、ちよさんブログ、菊川さんブログの
ポイント表リンクを掲示します。

ブログ村イプシロンさん
http://www.blogmura.com/point/00636181.html

ブログ村ちよさん
http://www.blogmura.com/point/01158565.html

ブログ村菊川さん(本館)
http://www.blogmura.com/point/00349828.html


2013/11/30・15:00~25日のInポイントだけを抜き出します。
          30日 29日 28日 27日 26日 25日
イプシロンさん 50   90   80  100   90   100
ちよさん     70  100   100  90    90    90
菊川さん    130  150  110 120  100  120

上から御覧になるとわかるようにInポイントがほぼ同数です。(1日10人前後)
週間の記事更新も1日一本以上をキープしてます。
もちろん三人とも記事毎に「ポチ」依頼を欠かしていません。
ところが、ここのところ毎日更新をしておられないイプシロンさん、菊川さんに
上納金のようなINポイントが付いている事に注目してください(笑)

記事更新もないにも関わらず毎日、ほぼ同じようにIn Outのポイントが
与えられている事が解ります。

しかし、こういった集団はネットに限らず、世間一般でもありがちなものですよね。
学校や会社、ママ友や果ては、アヤシイ社会運動団体まで規模は様々ですが
集団が形成されると似たような構成になるという例です。
社会心理学的には「集団凝集性」と言います。
(参考に・・)
http://keieimanga.net/archives/6927418.html

良い悪いではなく、これは人間の社会心理としてあるものです。
たとえば「ブログ村をつぶやく」カテでも同じ事がいえますね。
集団凝集には、対人的凝集性と課題達成的凝集性があるとされます。

くわしい説明は省きますが、簡単にいえば「人」に集まった応援団か
「目標・目的」を達成するため集まっているかの違いです。
「人」に集まれば派閥となって、これが過ぎると獅子身中の虫に化けます。

ある事がキッカケで、私は長年ネットを通じて「人」に集まっている集団を
観察し続けています。
もともと日顕宗のアンチネット活動家と対峙する中で、偶発的に発生したはずの
集団に属する人たちの意識が、主宰者と連動している事に興味がわいたのが
はじまりですが、同じ事が自称学会員のコミュニティの中にも存在しえる事を
富士宮ボーイ掲示板での沖浦さんとの一連のトラブルで強く認識しました。

-------------

一般的に我見というと自己判断の事を指しますが、本来
仏法における己義を「我見」と言います。
宗教の仏教というカテゴリーだけでも各宗派が存在するのも
それぞれの始祖の「我見」があり、それに追従する人がいるという事です。

しかし、同じ日蓮大聖人の法義をもっていても、各宗派があるのと、おなじく
創価学会員であったとしてもだれかの心に「我見」が湧出し追従する人が
あらわれてしまえば、内部分裂の元になりますよね。
だからこそ「師」が必要になってきます。
従って一度、弟子になったならば常に「師」を求め研鑽していかなければ
ならないと思います。
そして、弟子同士はなれ合いをするのではなく、善悪を見分けられる善友に
近づかなければなりません。

戸田先生の指導を引用します。

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※また、ある人が、大聖人の法義を語るとき、正しくこれを説かないで、我流の
考え方でこれを説くときに、かれは我見であるというのである。
すなわち、どこまでも、正しい大聖人の法義を中心にして考えて、よこしまな、
ひとりぎめの法義をば、我見というのであることを忘れてはならない。

(昭和三十年十一月一日:戸田城聖先生指導集109ページ)

//////////////////


この指導のような我見の者についていってはいけないのは当然ですが、
我見を見破る目を養わない限り、派閥をつくっているものが「我見」であるとは
思えないのですから難儀です(笑)

最近、食品偽装が話題になっていますが仏法においても「ホンモノ」と見まがう
紛らわしいものほど騙されやすく罪が深いと言えます。

「創価学会」や「日蓮大聖人」といったブランドに目がくらみ、我見の人に付く
ことで、自分が一番護らねばならない創価学会の信心を壊してしまわないように
願うばかりです。


信濃町異聞・霊鷲山はどこにある:創価の森ウォッチ94

( 初出 2013/11/25 )
まもなくブログの更新を終える予定の菊川さんの主張によると
信濃町の総本部は霊鷲山で信濃町駅は入り口なのだそうです。
該当記事リンク
※霊鷲山の入口◇創価学会総本部は現代の霊鷲山。
http://sokanomori.exblog.jp/20998995/


拙ブログではあらかじめ、このように誤解を招きかねない発言がある事を予想して
記事内で私なりに「広宣流布大誓堂」に対する考え方を提示させていただきました。
◎創価学会総本部に新名称「広宣流布大誓堂」

菊川さんは自ら御書や池田先生の指導を引用し
「池田先生は、各種の会合、その場所が霊鷲山であると言われた」と論じています。
にもかかわらず、総本部だけが特別な「現代の霊鷲山」と自讃しているのですから、
信濃町というブランドにかなり執着している事がうかがえます。

創価学会として「総本部」は以前からある場所で、会員の決意の場所にもなりえます
、が、新しくなったからといって信濃町駅が霊鷲山の入り口と評するのは、よくある
聖地信仰の考え方とおなじようなものではないでしょうか。
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(画像は信濃町駅にて撮影)

そういった「聖地」信仰が創価学会で異質なものである事を説明させていただく
ために、池田先生の指導を引用します。

//////////////////////////////////////////////

※また、我らがひとたびは指導の任にあたるや、ふくよかな、包容力ある名将として
 指導をとっていかねばならない。
 所詮、組織といえども、喜怒哀楽の情をもつ人間対人間のいきたつながりである。
 人間性なくして、どうして血の通ったはつらつたたる組織を築けようか。
外敵に対しては敢然と闘い、後輩にはおもいやり深く、豊かな人間性をもち、
 あらゆる人々が心から納得し、自身の希望と喜びをもって行動できるように指導
 する人こそ、まことの幹部であり、広布の名将である。

これ己身の妙法、己身の霊鷲山の輝きであり、また法華経が大将軍学たるゆえん
 であり、信心即実践の見事なる証明である。

【実践の将たれ(池田会長全集4巻頭言・論文編:創価学会刊)608ページ】

/////////////////////////////////////////////

上記の指導は昭和41年のものです。
その当時から創価学会では、我が身の中にある妙法が集うからこそ、その場が
霊鷲山会・虚空会として荘厳されるのだとの主張されており、今回菊川さんも
引用された指導から見ても変化がないのはあきらかです。

そう考えれば、普段の座談会も幹部会等の各種会合も、等しく霊鷲山の存在
であることを指導されているにもかかわらず、自らが最も感応した「ある場所」
を特別視するのはいかがなものでしょう。とても違和感があります。

思い返せば菊川さんの「創価の森の小さな家」ブログの記事数や内容をざっとみても、
現場での活動は自分にスポットが当たった座談会しか描かれていませんし、同志宅
の様子の記事もついつい
「こんなものが置いてあります」という物質の内容がメインになりがちです。

集ったメンバーの指導や体験談を聞いたりして、どう感じたか、どう奮い立って行動
したかではなく、会合前や学会と無関係の「自分の行動禄」に重きを置いて
きたのが「創価の森の小さな家」というブログだったのではないでしょうか。

例えば菊川さんが創価の森の小さな家ブログを始められたころに、取手の
学会会館での同時中継に駆けつけられた記事がありました。
http://sokanomori.exblog.jp/11783867/

以後、菊川さん地域の拠点となっている「会館の話題」は私はほとんど記憶に
ございません。
ご自身の参加された本幹同放(本部幹部会同時中継:本幹同中)の話は
10記事ほどありますが、それ以上に信濃町にかかわる記事ばかりを熱心に繰りかえ
されているからかもしれません。

つい最近の記事では、肝心の同時放映の時間を勘違いされているようです。
http://sokanomori.exblog.jp/20733890/

通常おこなわれる学会活動の中で会合などの告知も兼ねて、会員宅や友人宅に
家庭訪問をすることがしょっちゅうあるので、会合の開始時間と会場はしっかり
家庭訪問をしていればまず間違えることはありません。

おそらく菊川さんは最近は現場の会員さんへの同時放映の結集をされていない
のではないかと気になってしまいます。
たしかに信濃町に建設された新宝城は立派な建物です。
でも、その立派さに惑わされ、地元の会館や座談会場が総本部よりも物足りない
と感じているからこそ、足しげに通い、信心を奮い立たさなければならなくなって
いるのではないかと私は心配してしまうのです。

また、創価学会では、本部を含めて各地に会館がありますが、地域の学会員さんが
自発的に管理に携わり護っています。
青年部の創価班・牙城会・白蓮グループ等々各種の人材グループがありますが
壮年部・婦人部にも会館運営にかかわる人材グループは数々あります。
影に日なたに、わが「地域の宝城」にかかわっておられるかたは、「わが会館」に
対する深い思い入れがあると思うのです。
しかし、私は菊川さんの記事を最初から見続けていますが、そういった意識を
感じることがついにできませんでした。

心を、かつて住んでおられた東京に今でもおいてきているように感じるのです。

菊川さんに限らず、学会員さんが活躍するところは自分が今住んでいる地域です。
今働いている職場なのです。
軸足をどこに置くかはとても大事だとおもいます。

詳しく書かなくても、ふとした記事にその意識が現れている事があるのです。
是非自分の記事やコメントを客観的に見返して、みてください。

読者の学会員さんは、どこに軸足をおいて活動をされていますか?

どうして同志を批判するのか:創価の森ウォッチ93

( 初出 2013/11/25 )
私は10年ほどネットで日蓮正宗のみならず、創価学会員のブログの変遷を
見てみました。
興味深い持論を展開される方を見つけると、学会員・非学会員の区別なく
記事の内容をコピーし保存してきました。
特に、学会員としての教学を含めた指導スキルをかなりもっておられる方も
中にはおられ経験や実務上の経験を積まれてきた事を感じました。

しかし、どんなに役職上経歴をつまれようが弘教の実績があろうが、いざ
知らない人との「言論の闘技場」に足を踏み入れると、「地」がでてしまう
ようです。

学会アンチのタワゴトは無視できても、自称学会員のタワゴトは無視できない
というのは、その方に「創価学会に対する愛着」があるからだとおもいます。
沖浦さんにしても、ちよさんにしても、菊川さんにしても、自分なりの
「創価学会の理想」をおもちだからこそ、他の学会員らしき方に批判を
されると心を乱されて当然だとおもいます。

しかし、拙の経験として、「アンチのタワゴト」をほぼ無視できるタイプの人は
善悪の判断基準が「内の和」に強く向いているように感じます。
逆に言えば、「内の和」に執着している人は学会批判に対して見ない振りを
されます。
さらにいうならば、高慢と偏見で「取るに足らない存在」という逃避的な解釈をし
思考を停止してしまうのです。
「アンチのタワゴト」はそれでもいいのかもしれませんが、困ったことに
逃避癖がつくと同志の意見に対しても同様の態度をとるようになってしまうの
です。

菊川さんの「三猿運動」などはその典型例で、創価の森の小さな家設立当初
は対アンチのサイトという位置づけでしたが、次第に内々で仲良くやっていれば
アンチがなにをしていようが日顕宗がどうであろうが自分自身とお仲間が
仲良く幸せそうにみえれば良いという発想に変化していきました。
こういった「内の和」コミュは、居心地がよく、特に主宰者に対しての
批判は、コミュニティを構成するオトモダチ全員で排除しようとするものです。

でも、考えてみてください。
創価学会や池田先生への批判は無視できても、ごく親しい人への批判は
許せない。これは学会員として本末転倒です。
社会心理学でいう「共依存」という状態ですが、この共依存はオトモダチ
だけでなく、釣られて主宰者も変質してしまう怖さがあります。

その実例が斧節の主宰者小野不一さんです。
  小野さんは関東の創価学会男子部時代にはかなりの役職と実績をもって
おられたそうです。
10年ほど前、小野さんは対アンチにしても対学会員にしても、創価学会の指導
や御書を引用しつつ、ガンガン破折をされていたので当時アンチの謀略に辟易
していたネットの学会員さんの中では一目置かれる存在でした。
掲示板にも多数の学会員さんが出入りしていました。かく言う私もその一人です。
ところがその裏で、自分がかつて批判していた「学会員をターゲットにした商売」
をしている事を露呈されてしまった時から、坂道を転げ落ちるようにおちぶれて
いってしまいました。
隆盛を誇っていたコミュニティは縮小し、仲の良かった鯖さんに管理権を譲り
渡しましたが、その掲示板も消滅しました。
現在ではクリシュナムルティに傾倒し集団(組織)否定論者になってしまって
ツイッターやFacebookを通じて情報発信をされています。

少々状況説明が長くなりましたが、教学や経歴、信仰体験や唱題の数など
創価学会員として「内」にウケル内容をいくら書けても、いざ学会コミュニティの
「共依存」の関係に溺れてしまうならば、現場での学会活動に不信をいだくキッカケ
にもなるという恐ろしさがあるのです。
おそらくコミュニティ内の人は小野さんの変質を見ても自分には責任などないと
考えているかもしれません。
しかし、たとえバーチャルであっても、一度心を許したオピニオンリーダーがしだいに
崩れ落ちる様をみて動揺しない人はいないでしょう。
特にその相手が学会幹部であるというのならば、なおのことです。
下手をすると信心そのものに不信をいだき現場での活動にも支障がでてしまうかも
しれません。
こういった事実に気がついた人をネットではあまり見かけないですよね。
なぜなら、共依存の怖さに気がついた人はほとんど「学会ネットコミュ」から
足を洗ってしまうからです。

【大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、
                    薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり】(佐渡御書)


内々の親近感による軽率な言動や行動で信心がいともたやすく破られてしまう。
正法を保った人の信心を破ってしまうかもしれないのなら、わざわざ見知らぬ学会員
さんと薄っぺらいおつきあいなんてしないほうが罪をつくらずにすみますから。

かつて富士宮ボーイ掲示板で、投稿者が少なくなった事を「よかった」と
評してバカにされたことがありますが、同志間であっても失敗を反省しあって
投稿ルールを構築しバカアンチが容易にこられなくなったからこそ数々の
学会員論客の貴重な時間と手間をかけずにすむようになりました。

「信心の強さ」で人を集める事もできますし、「信心の弱さ」で人を集める事も
できるのがネットワークの特性の一つだとおもいます。

ならばネットを価値的に使うとすれば、どうあるべきかを常に考え続け
その情報を発信していかなければならないと考えています。

そういった思いもあって、「価値を生めない人とは」を書きました。
http://captivated2.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

大白蓮華の11月号91ページの池田先生の指導を引用します。

※目的への一念が、はっきりと定まっている人は強い。
 何があろうとも、すべてが成長の糧となる。
 その人には動揺もなければグチもない。
 ふざけや要領がみずからの損失であることが明らかに見えてくる。
 そして苦しみは勇気を、悩みは智慧を、友の嘆きは限りない慈愛を、
 わが胸中にひらいてくれる。

( 時代を開く師の言葉【メッセージ】より抜粋 )

学会員ブロガーさんは、今一度「目的の一念」を見直し
心のどこかに、ふざけや要領がなかったか省みてください。

そしてそれが「世界発信に資するものか」を問いつづけてください。

価値創造と11.18の真の意義:創価の森ウォッチ92

( 初出 2013/11/20 元題:価値を生めない人とは・11.18の真の意義 )

現在(11/20)聖教オンラインにも掲載されているように、2013年
11月16日から18日にかけて創価文化センターにおいて、午前10時から
午後6時の間に順次「11.18記念勤行会」が開催されていました。
創価の森の小さな家ブログの菊川広幸さんがこの勤行会に参加された
そうです。それは喜ばしい事だとおもいますが、菊川さんは2013年度
11.18の記念勤行会のもう一つの意義を完全に忘却しているようです。

11月19日付の聖教新聞にも掲載されていましたが
11.18は、牧口常三郎初代創価学会会長の『創価教育学大系』発刊
の日であるとともに、牧口先生が獄死された日でもあるのです。
1944年(昭和19年)の事でした。

広宣流布大誓堂に安置された、創価学会常住御本尊は、戸田先生が
会長就任の際発願され、60年前に西神田から信濃町に学会本部が移転
したおりも本部に御安置された曼荼羅です。 
その御宝前で始めて行われた創価学会の公式行事が牧口先生の10回忌で
あった事も、池田名誉会長からの記念勤行会へのメッセージにあらためて盛り
込まれていました。
その後も創価学会は50回忌の節目に創価大学の見える丘に東京牧口記念会館
を建立し、そして迎えた70回忌。
信濃町に「広宣流布大聖堂」が建立され世界宗教としての飛躍を広く世界に
しらしめたのです。

創価学会を目の敵にしている日蓮正宗の門徒の中には、牧口会長(当時)
戸田先生や創価学会幹部が治安維持法と不敬罪の容疑で軍部に逮捕された
事を指して、総本山大石寺に迷惑がかかったなどと言うものがいます。
これは日蓮仏法を鑑みるに、筋違いの批判であると言わざるをえません。

牧口常三郎の弟子として戸田先生はこのように書きこのされています。

///////////////

※牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信にたたれていたではないか。
 あの太平洋戦争のこそ、腰抜け坊主は、国家に迎合しようとしているとき、
 一国の隆昌のためには国家諌暁よりないとして、「日蓮正宗をつぶしても
 国家諌暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ」と
 厳然たる命令をくだされ たことを思い出すなら、先生の確信のほどが、
 しのばれるのである。
【創価学会の歴史と確信(昭和二十六年八月十日):戸田城聖先生指導集220ページ】

///////////////

この誓願は戸田会長から池田大作、以後の会長を中心として全創価学会員
の誓願ともなっているのです。
繰り返しになりますが、11.18は創立記念日であると同時に、師弟の誓願を
再確認する節目であるといえるでしょう。

さて、本日付(2013/11/20)の東京新聞系の朝刊には現在国会で議論
されている「特定秘密情報保護法案」についての論評が「特報」として
掲載されていました。
その内容は「公明みせかけの歯止め」「秘密法成立へ、むしろ協力」
「支持母体創価学会も、秘密法案とダブる戦前の治安維持法違反の罪で
 初代会長が投獄され、獄死した過去を忘れたか」
等々
公明党に対しての厳しい意見です。
その中には公明党が「平和の党」であり、庶民の側に立つ党としての
旗揚げであった事が紹介されており、広宣流布大聖堂の写真と
ともに支持母体の創価学会へのインタビューも掲載されていました。

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(2013/11/20付け 朝刊13面からのキャプチャー画像)

そのほか、識者へのインタビューとして宗教学者の島田裕巳氏がコメントを
寄せていました。
曰く
--
「今月は総本部『広宣流布大誓堂』の完成や、創立の記念行事があり、会員の
 関心が、秘密法案にまで及んでいなかったのではないか」
(以上引用)

--
島田氏らしい皮肉を込めた推測にも見えますが、新聞社の論調はおおむね
牧口常三郎、戸田城聖、池田大作と続いた創価三代の「国家権力への闘い」
、そして創価学会員に与党のブレーキ役としてマスコミから期待されている
からこその、批判だともいえるでしょう。

話しを戻しましょう。
総本部での勤行会に参加されたはずの菊川広幸さんのブログの記事
には、ただただ歓喜しておられるものの、肝心の師弟の「誓願」を忘れたかの
ような弛緩した記事が公開されています。
カレーとワインで祝賀の宴だとの事ですが、これは以前に紹介させていただいた
墨田のちよさんの自宅でのもてなしを再現したものであることは論をまたないでしょう。
( プレゼントが創価学会をダメにする:創価の森ウォッチ86 )
他にもネット上の創価学会員さんの記事をみるに、
「広宣流布大誓堂」の真の意義や、創価三代の師匠の誓願をおざなりにして
ただただ、自分が新しい時代を迎えられたことを喜んでいるだけの方も多いです。

このような記事を目にした世間の方からみれば、宗教学者の島田氏の推察も
「さもありなん」とおもわれることでしょう。

本日付の聖教新聞・名字の言にはこのように記されていました。

※すぐれた思想や哲学も、それを学び、体現する人がいなければ、
 価値を生まない。次の世代に継承されなければ、 歴史の”標本物”と化す。
 仏法流布の方程式も同じである。

(名字の言 2013/11/20 より抜粋)


優れた思想を知っていても、活動自慢、功徳自慢など個人の享楽にのみに
溺れた姿をネットで体現しているだけならば、なんら価値を生まないという
事実を学会員ブロガーは真正面から捉えるべきではないでしょうか。

獅子身中の虫への階段:創価の森ウォッチ91

( 初出 2013/11/12 )

はた京阪さんの「にほんブログ村をつぶやく」 掲示板で、菊川広幸さんの主宰
する「創価の森の小さな家」について福島の壮年さんのご意見を伺いました。
福島の壮年さんは、イプシロンさんのブログに意見を書き込んだあと退出された
方ですが、私と同じく、学会員としてのブログのありかたについて思いをはせて
おられるようです。

福島の壮年さんは、学会員ブログのあり方について

※「まさにこれから活動家に育とうという学会員が見た時、
大きな害毒を与え」るかどうかです。


と判断基準を示されましたが私も同感です。
その上で、菊川広幸さんの「創価の森」ブログについては、プライバシーの配慮等
少々難がある事もあるけれど、全体としては問題ないのではないかというご意見でした。

はたしてそうなのでしょうか。

ある問題がある場合、それに気付くかどうかは経験による部分が大きいと思い
ます。
失敗をした場合や、危険に逢われた場合は、なにが問題だったのかを省みる事が
できますが、危険を認識できない人は概ね、「これぐらいは大丈夫だろう」と
危険を軽視するか、注意すら気づけない状態であることがあります。

これは、境涯論についても同じ事がいえるとおもいます。
同じ事を繰り返し言っていてもご本人がどのように受け止められるかは、境涯に
よります。
私もブログの是非を判断する場合、これからの青年部さんや、活動が思うように
できていない方への影響をまず考えてしまいます。

5年間、創価の森ブログを拝見させていただいていますが、それなりに活動され
ている事はうかがえます。
しかし、一貫して氏の言動には「見栄」の信心が見え隠れしてます。

その結果として学会員だれしもがもっているであろう「総本部」への愛着、創価学会
への敬愛をを絡めたうえで、プライバシーの軽視や、妙なおもてなし信心が何度も
繰り返されている事に注目される事が大事だと思います。

ちょうど今月の座談会御書であった「報恩抄」に、弘法の真言密教よりも、天台の
密教化のほうが大問題であるという御文があります。 

///////////////

◎例せば法師と尼と黒と青とはまがひぬべければ
 眼くらき人はあやまつぞかし、
 僧と男と白と赤とは目くらき人も迷わず、いわうや眼あきらかなる者をや、
 慈覚智証の義は法師と尼と黒と青とがごとくなるゆへに智人も迷い愚人も
あやまり候て此の四百余年が間は叡山園城東寺奈良五畿七道日本一州
皆謗法の者となりぬ。

(現代語訳)
たとえば、法師と尼と、黒と青とはよく似ているので、目の悪いものは迷って
しまうのである。
僧と俗人、白と赤とは目の悪い者も迷わない。まして、目が健全なものが
迷うわけがない。
慈覚・智証の義は、法師と尼と青と黒のごとくであるから智人も迷うのである。
かくして四百年余年間、比叡山、園城寺、東寺あ無論のこと、奈良の諸大寺も、
五畿七道のものも、日本国みな真言のものとなった。
ゆえにみな大謗法のものとなったのである。

(日蓮大聖人十大部 第七巻 報恩抄:創価学会刊)

///////////////


天台宗の智証や慈覚が真言の誤りを破折せず、天台に取り入れたことから
日本中の坊主や智者までもが誤ってしまって日本が大謗法となってしまった
との御文です。
十大部講義には【正文相違の失(とが)】とくくられている箇所です。

信行学に邁進する学会員なら分かるような、我見や己義を破せないのも、
まだまだ修練が足りないといえると思います。
ですが、真面目に信心をし経験を積むと、なんとなくではあっても善悪の判断や
優劣が分かるようになります。
しかし、その次の判断基準の段階では、良いのか悪いのか判別できない行為に
出あうことになります。

ここでも試されるのは境涯であり、信心だとおもうのです。
考え方を是認(破折)できるかかどうがが肝心となってきます。。
学会誹謗の退転者を見るに獅子身中の虫となるものは、かならず「池田先生」を
敬愛し、創価学会を賛嘆し信心深い事をアピールしつつ、自らは安逸を願い
私欲をむさぼってきた連中ばかりです。

福島の壮年さんが指摘されているように、一見すると信心に邁進されている
ようにみえるケースは問題がないという方もおられる事は重々承知しています。
だからこそ、判別しがたいケースであればあるほど、「師弟」を考えて
みなければなりません。

上記、報恩抄講義にも厳しい指導が書かれています。
////////////////////////

「師質の道・一を闕(か)いても不可なり」であって、正法正義を選んで修行に
励んでこそ即身成仏がかない、邪法邪義を信ずる者は無間地獄に墜ちる事も深く
いましめなければならないのである。
「師質の道・一を闕(か)いても不可なり」とは、師弟の道を示しているのである。
師とは師匠である、質(し)とは禀(う)けるの意で、弟子を意味する。
すなわち、仏法において、師弟の道は一を闕いても成仏はできないとの謂(いい)
である。
仏法はいかに師弟相対を重んじていることか。

(同・日蓮大聖人十大部講義 報恩抄より抜粋)

/////////////////////////


ネットにかぎらず、池田先生は、個々の学会員が全く見知らぬ人に対して
率先して座談会の報告や組織活動の街頭宣伝をせよと指導されている
でしょうか。

またその街頭宣伝の結果、知り合った人達と交流をし、物品のやりとりをはじめ
たり、宴席を企画せよなどとと言われているでしょうか。
その相手が同じ同志の創価学会員であるならば、なお考えずにはいられないはず
です。

私が思うに、「茶話会的集団活動」これらはすべて、我見による疑似学会活動です。

こんなものが世間一般に公開されたままになっている事こそが、これからの青年の
為になるはずがありません。
またそんな行為を「よかれよかれ」で黙認している学会員さんの境涯もそこまでだ
と言わざるをえません。
またそれ以上の境涯になれる貴重な機会(時間)を失ってしまうでしょう。

概ね「よかれよかれ」の学会員さんは、いまでもある日顕宗の邪を破るよりも、
内の輪を睦む事を優先されます。
かつて菊川さんが聖教新聞等の日顕宗破折に、わざわざ抗議をしたもの
「邪を破る」という義を身で読めていないからこそだとおもうのです。
後に彼は、帯状疱疹ができたので間違いに気がついたと述べていますが、
怖いからやめようといった他力的発想で「抗議をしない」事にしているだけ
ですから、善人(いや普通人か・・)のイメージを創る事のみに執着しています。
沖浦氏もおなじ傾向が見られますよね。

結果、自分のイメージを崩されることを極端に嫌います。
これに相対する防御法の一つとして、創価学会のイメージと自分のイメージを勝手
に同一化してしまう事があります。
「オレを批判するもの」=学会アンチと同一 という論理のできあがりです。

その当時の菊川氏の発言痕跡が魚拓に取られています。
http://megalodon.jp/2010-0912-0913-29/sokanomori.exblog.jp/15107125/
http://megalodon.jp/2010-0915-1824-36/sokanomori.exblog.jp/15122925/

だれかが「もうやめませんか?」と言われたからという理由でやめています。
(この記事はすでに削除しています)
この悶着の残りカスが、創価の森の小さな家の「三猿運動」です。

上記魚拓のコメントをチェックされるとブログ村創価カテの読者さんは
既視感があるのではないでしょうか。、
一連のシークエンス(場面の連続展開)は、イプシロンさんの対応と同じなのです。

AさんとBさんが、意見の相違でトラブルになった場合、煽るだけ煽って相手の
反論を引き出しある程度出そろったところで、Aさんが元となる煽りを消去し、
相手(Bさん)の主張のみを残す。
状況を知らない人が見れば、一方的にBさんがAさんを責め立てているように
演出できます。

それから後にAさんは後に被害者面をするなり、善人イメージを構築すれば、
Bさんを大悪人に仕立て上げる事ができます。
この狡猾なやり方は日顕宗僧俗がよくやっています。
いわゆるC作戦が、まんまこの方法を使っています。

ちょっと説明が長くなりましたが、故意に他を貶める事と引き替えに自分の印象を
良く見せようなどと画策する人が、軽々しく池田先生や創価学会を宣揚するのは、
どこまでいっても自分の為です。

これを見て「師弟の道から外れてきている」と感じる事ができないのは問題だと
考えます。
繰り返しになりますが、はずれてはいけない道をそれているのに、その間違いが
指摘できないのは、その人の境涯であり信心です。

そういった人がいくら集まっても、お気楽サロンにしかなりませんし、今苦しんで
いる人には毒にしかならないと思います。

福島の壮年さんは、イプシロンさんの行為を見て「甘やかしてはいけない」と
忠告をされました。
私も大筋で同感ですが、ネット上で「甘やかす」というのはどういうものであるかを
一歩踏み込んで皆さんにも考えていただきたく思います。

申し訳ありませんが、私は菊川氏のブログは師弟の道を外れる因として充分な
資と量がありすぎると考えます。
また菊川氏個人に対する問題提起という事ではなく、我見に陥りがちな「勘違い」
としてこれからもネットを通じて啓発を続けるつもりです。

私は、決して記事内で取り上げた皆さんが「獅子身中の虫」だと糾弾しているの
ではありませんし、そういったラベリングは無用と考えます。
読者の皆様は、くれぐれも誤解のないようにお願い申し上げます。



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