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「仕事が忙しい」の言い訳 :創価の森ウォッチ132

「ひらがな御書」というサイトを主催し毎日ブログを更新している、菊川さんは
サイトの新規ページ数が増えなかったり、ブログの記事が安易なものになると
きまって“仕事が忙しい”とか“疲れた”といったニュアンスワードが連呼される。

世の男性陣は、なにか予定上の不都合がおこると「仕事が忙しいので」とか
「疲れているので」という釈明をされたことが何度かあるのではないだろうか。
だが、実際に、仕事が忙しくて他のことができないというほどの売れっ子の人
はそうそういない。

他のブログでは「仕事が忙しい」といっている人で、ほんとうに忙しそうな人を
私はみたことがないと書いているかたもおられるし、拙もおなじ考えだ。
逆に仕事を要領よくこなしている人は、時間を創るのも上手だ。
特にネットで毎日コミュニケーションを楽しんでいる人が、サイトの更新が
滞っている理由に「仕事が忙しい」とわざわざアピールするのは、甚だ嘘くさい。
本当に時間がないのなら、頼まれもしない個人的なブログの毎日更新など
できるはずもないだろう。
新社会人なら要領がわるいのも経験のうちだとおもえるが、何十年も同じ
仕事を継続しているにもかかわらず、自分の要領の悪さを「仕事」のせい
にするような人がはたして、どれだけ会社の為に働いているのか疑問符が
つく。

また疲れていると、いいいながらブログの更新を休むという選択肢は
みられない。
むしろ「忙しい」といいながらも、新聞や雑誌に目を通してあらすじを
記事にしているのだから滑稽ですらある。
原稿の締め切り「期日」があるわけでもないのだから、弁解する必要性は
うすいはずだ。
仕事の話題や、忙しさを話題に乗せがちな人は、読者に理解をもとめている
というよりも、記事の質の悪化に対し「同情」を誘っているように見える。
また、疲れているにもかかわらず読者の為に記事を書いているという
のが「カッコイイ」と評価されることを信じているのではないだろうか。
本当に忙しい人は「忙しい」と口にしたところでなんら解決になっていな
い事を知っているはずだ。

「忙しい」とか「疲れている・・」という言葉は、受けた相手からすれば、
仕事の様子や疲労度などわかりようもないので、体良く「ことわる」場合に
よくつかわれれる。
しかし、仮にそういう状況にあったとしても、本当に自分がやりたいこと
なのであれば時間の都合をつけたり、代替案を提示したりするのでは
ないだろうか。
仕事の時に大切なクライアントさんや、彼女や奥様とのデートの時に
「仕事が忙しい」「疲れている」といった、自己都合を並べ次の予定すら
たてないようなタイプの人物が、信頼を得ることなとできないだろう。
「忙しい」人は、頼まれもしないのに自分から勝手に物事をはじめ、手に
負えなくなったりモチベーションがさがった時に、「忙しい」というワードを
つかう。

ところが、ネットのコミュニケーションでは、たとえ書かれたことであっても
「他人のプライバシーに踏み込まない」ことが暗黙のお約束になっている
のだから、テキトーに自分のせいではないと言い訳をして現実逃避を
したい人には天国なのだ。

これは、「ネット」で非学会活動宣言をし、賛同者を得ようとする内部アンチ
さんの心理に通じるところがあるように思う。
どんな言い訳をしたところで、自分の能力のなさを晒していることがわからな
のだから、始末が悪いといえるだろう。














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日出れば星隠れ:真実を語るウォッチ 34

本日付けの聖教新聞(2016/3/24)の社説に、過日開催された団地部
の会合での話題が紹介されていた。

その団地部の会合にて墨田区の都営住宅の地区夫人部長さんが、体験談
を発表されたのだそうだ。
詳しい内容は紙面で確認をいただきたいが、地域活動で実証を示され
区からも感謝状をいただいたのだという。
社説には以下のような文章が付加されていた。

『いずこの地にあっても、自身が住む団地を人間共和の都に、笑顔の花が咲く
幸福の園にと祈り、地域貢献の行動を続けるのが団地部の友である。』
(略)
人々の心に寄り添い、自他共の幸福を祈り行動する団地部の友は、未来を
照らす希望の星といえよう。』
【2016/3/24 聖教新聞 社説:「幸福の城」築く団地部 より抜粋】



創価学会での活動は、宗派の中だけで会員さんの面倒をみれれば
良いというものではない。
むしろ、学会活動を通じ培った慈悲の精神を、社会に対し具体的に実践
することで、学会の正しさを証明することができるといえよう。

墨田区といえば、現在ネットで疑似学会活動を展開中の「ちよ」さんが思い
おこされた。
彼女のブログを拝見すると、この団地部の会合には参加されていたようで、

『女性の特性を生かし 決め細やかな配慮で 自治会をリード。流石 婦人部』
【真実を語る:2016/3/15 団地部の会合に行って来た より抜粋引用】

と表向きには賞賛の声をあげられているように見える。

しかし、今「ちよ」さんが力を入れている、リアルでの活動は墨田区の都営団地が
舞台ではない。
ネットでの私的表現活動を通じ、他地域の学会員諸氏を墨田区の自宅に呼び込み
便宜を図ることでその学会員さんを喜ばせ、ブログやSNSを通じ「ちよ」さんを自身
を宣伝してもらうとまわりくどい、ネットからリアルへの個人還元活動だ。
彼女にとっての創価学会とは、自分が他者からの評価を得るために、墨田区の
大幹部の名前を出したり現場の人脈を使うといった「利用者」の立場だといえよう。
前述の婦人部長さんとちがい、私的に好意を寄せる身内にだけ奉仕している
ような状態なので、「ちよ」さんのリアルでの活動は、地元で評価されることはない。
だから自分で自分を宣伝するしかなく、花を持たせてくれる相手しか興味がない
のかもしれない。

拙がそのように考えてしまうのには理由がある。
彼女はアメブロで、ある騒動を起こしていることが判明したのだ。
拙はアメブロにおいても、記事を公開し他のユーザーさんに
同盟唱題や活動報告といった「ネット疑似学会活動」についての懸念を
投げかけている。
しかし、同様のことを感じておられるかたも少なくないようで、読者さんの中には
自分なりにブログで記事にされたり、あるいは、第三者のブログコメントで
「ネット疑似学会活動」に懐疑的な意見を書き込まれたりされているようなのだ。

そのような方のお一人が、突然「ちよ」さんから
「ではなぜ?あべひさんのお友達?」などとHNを挙げ拙との関係を
疑われたそうだ。
これはAmebaに登録され、かつ、特定のHNの方に登録されたかた
のみが閲覧できる、いわゆる「限定記事」内でのコメントだったようだが
、突如いわれもない勘ぐりをうけたことに不快感をしめされ、ブログに
公開をしてくださったことで、拙も事情を知ることができたのだ。

枇杷の葉さんのブログ記事「あなたな〜ら どうする?」へのリンクです。

いつぞやの「ナリスマシ騒動」でも、うすうす感じていたが、どうやら
墨田区のネット活動家「ちよ」さんは、世間向けのフレンドリーな面と、内々向けの
攻撃的対応の二面性を持ち合わせているらしい。
人はつい流れで感情的になることもあるとはいえ、自分が飾り立て
造り上げたネット上でのイメージを汚す者に対し、なにがしかの「関係性」
を直情的に疑っているようでは、彼女の疑心暗鬼は病的にすら思える。

彼女の表向きのフレンドリーネットアピールは決してリアルでの組織内や
社会的の「幸福的」立ち位置が反映されたものではなく、むしろ、現実逃避
のためのネット活用であり、寂しさを埋める為のとても空虚なものだといえ
ないだろうか。

日蓮大聖人は御書の中で
『日出れば星隠れ 巧を見て拙きを知る』 (内房女房御返事)
と伝教大師の説を引用されている。

現場で実証をしめされている方が、多くの第三者から評価されることと
ネットで便宜を図った人から、評価されることとは 
「日」と「星」のような関係であるといえないだろうか。
現場で実証を示された方と比較するならば、ネットでわずかばかりの評判に
浮かれている自分は「拙い」ことが覚られてしまう。
拙い自分を誤魔化す為に 「さすが婦人部」などと褒めているのなら滑稽
でしかないだろう。

ちっぽけな我が身をいくら誇ったところで、本物にはかなうはずもないのだ。

ならば、目指すのは信仰に根ざし地道に「地域貢献」をつづける本物の
活動家ではないだろうか。









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インターネットと学会活動 (後)

前段(インターネットと学会活動(前)で拙は、インターネットを使い信仰イベントを
募るタイプの疑似学会活動は、現場での学会活動になりえないと書いた。
勘違いされると困るのだが、拙は学会員がインターネットを
使うのはいけないと主張しているのではない。
また、単純に、学会員さんは知らない人とネットで
コミュニケーションをしてはいけないと考えた事も無い。

ネット環境が整備され、日本におけるインターネット利用者数が
平成26年に一億人を超え、82%強の方がなにがしかインターネット
をつかっている時代だ。
総務省のサイトをみてみると、自宅のパソコンからの通信が53.3%
スマホからの通信が47.1%と、ほぼ2強の存在となっている。
自宅のモニターの前に陣取らなくても、モバイル端末でどこからでも
気軽に通信が出来るのだ。
学会員さんが、会員さんや友人知人とコミュニケーションを取るため
にネットを使っていないはずがないだろう。
なのにいまさらネットをつかってはいけないなどというのは非現実的だろう。

さて、一般の方学会員さん問わずその使い方は二種類あるようにおもう。
リアルの知り合いとの連絡にネットを使っている人。
または、見知らぬ人との新たな出会いを求めネットを使っている人だ。
いずれも情報を発信・入手するという目的はおなじだが、2種類の利用割合
は人によって様々だということになる。
ただ、ネット通信機器は相互同時通信であるために設定によって、
知らない人と容易につながることができ、利便性がたかい。
この利便性の高さは、他者に対する警戒感を薄れさせる一因となって
いると思われる。

たとえば固定電話で、適当な番号を回し、どこの誰かに電話がつながった
としても、自分の知らない人ならまず切られてしまう。警戒されているからだ。
だが、ネットでは、会った事も無い人とつながることは警戒されるどころか
むしろ歓迎されることが多いのではないだろうか。
しかし、簡単に自分のことを労せず多くの人に知ってもらえることが
できるようになった反面、対人関係そのものは希薄となってしまっている。
3人の中の1人よりも、30人の中の1人は印象が薄いのと同じだ。
混み合った電車の中で、化粧をはじめたり、大きな声でしゃべっている
人にとって、周囲の人は「無関係の人」で気にならない存在に意識の
格下げされているのだそうだが、同じような心理が働いているのだろう。
印象が薄く、気にならない存在がゆえに警戒心も低くなるのだ。

となると、ネットを介したコミュニケーションでは対人関係の希薄性を
いかに深化させるかが利用価値を創造するポイントになるように
私は思う。
これは、リアルの活動における「本当の友」の存在が、重要になってくるだろう。

ちょうど、2016年年2月27日付の創価新報に「本当のともだちって?」
というテーマで興味深い特集記事が組まれていた。
ある男子部はうわべだけのつきあいであることが解りつつも、人気者
を演じてきたがあるキッカケで無視されるようになったという。
よくあるイジメだ。彼のトモダチ観は所詮そんなものだと冷めたもの
になり引きこもりになったそうだ。
しかし、ありのままの自分を真剣に考えてくれている1人の親友と出合
ったことで、体調も回復し社会へ復帰することができた。
彼もSNSでの広く浅いつながりがあるそうだが、「自分のことを理解して
くれる本当の友達は数人いればいいかな」と感じているそうだ。
これはインターネットをつかいながらも、リアルとネットどちらの「関係」
に重心を置けばよいのかを教えてくれる内容だとおもう。
学会活動にもまったく同じ事がいえるのではないだろうか。

前述した創価新報の4面には筑波大社会学教授の土井氏への
インタビュー記事が掲載されている。
土井教授によれば、現代はネット環境が発達により、常に誰かと
つながっていたいという欲求を満たすことができる一方、誰かと
つながっていないと不安になり、一人になったとときの孤独感が
強まっているのだという。現代は自由になった代わりに社会の側
での絶対的拠り所をみつけられなくなった結果、常に自分を評価
してくれる仲間の存在だけが自尊感情をささえる唯一の基盤に
なっているとも言われている。

『従って、絶えず他者からの承認を求めながら、対立を避け、互いの
 内面に深く立ち入らず当たり障りのない関係を結び合うようになって
いったのです。これを私は「優しい関係」と呼びます。』(同紙より抜粋引用)


これは拙がよくいう「オトモダチ」の関係とまったく同じだ。
オトモダチの関係は、異質なものを容認しない。だから結果的に同質
のものたちばかりが集まることとなる。
オトモダチ関係の優しさとは「自分は傷つきたくない」という臆病な心の
裏返しではないだろうか。
自分に甘く、広く浅いぬるま湯の世界では自己の成長などできようもないだろう。

ならば、リアルな学会活動はどうだろうか。
外から見聞きすると「同質」のものたちばかりの集まりにみえるかもしれないが
実際は、いろんなタイプの方が集まってお互いが切磋琢磨しあっている。
自分好みの集団をつくるわけでもなく、それぞれが自分勝手に好きな活動
だけをしていることはない。常に異質な他者との出会いだといるだろう。
時には意見が分かれるときもあるが、同じ目的で完遂に向かって互いに
協力しあうので、成長でき、信頼関係が深まり現場の組織は強固となって
いるのではないだろうか。
ネットのコミュニティにありがちな、似たもの同士のオトモダチ関係とは
正反対なのである。

もし、インターネットで学会活動がしたいのなら、人数の多寡をもとめるの
ではなく、異なる一人とぶつかり合いながらも、相手との深い関係を築いて
いけるバイタリティをもって挑むしかないだろう。
甘い考えから抜けきれず、お互いが堕落していくのを望んでいる学会員は
いないはずだ。
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東日本大震災から5年

本日3.11は東日本大震災から五年目にあたる日だ。

朝からテレビ各社も「特集」番組を報じている。

2011年、大震災のあとの津波映像は今見ても、自分にはなにもできないと
いった当時の「虚無感」を鮮明に呼び起こしてくれる。

2016年現在の被災地の空撮映像が流されているが、まだまだ
復興というにはほど遠く、復旧をめざしている状況だ。

震災後都合3度ほど被災地を訪れたが、忘れられないことがある。

大津波が襲い、街がほとんど壊滅した三陸鉄道の駅舎をはじめて訪れた。
駅舎は高台にあったために、難を逃れたが駅前の広場まで津波による瓦礫が
押し寄せたそうだ。

駅の待合室の隣には売店があり、通路には被災前の「街」の写真が展示されていた。
すぐ背後に山がせまった地形が多くある三陸地方で、海岸道路沿い、裏山の中腹に
いたるまで古家屋が密集している、よくある漁村の風景だ。
駅から海まで歩いたが、数百件の家屋が土台ごと消えていた。

幸い、日頃から地震があっったときは高台に避難する訓練が周知されていた
ため、人的被害はすくなかったそうだが、住み慣れた生活の場や財産を根こそぎ
失った喪失感はいかほどのものだっただろう。

駅舎にもどると、「きせきの一本松」というタイトルの絵本が展示されていることに
気がついた。
よくみると、表紙裏の部分に寄せ書きが書かれている。
2014_0815-17三陸鉄道0294_R


「負けない心 朗らかに 前進!!」

久本雅美さんのメッセージとサイン入りの絵本だった。
おもわぬ所で、マチャミの真心に触れる事ができた。

すべての震災、原発事故の被災者の皆様に
拙からも同じエールを送りたい。
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インターネットと学会活動 (前)

あるブログを中心とした、コミュニティ内での同盟唱題(複数の学会員が
唱題をすること)や、投稿者に対する激励運動、便宜供与といった
本来の学会活動をマネた「疑似学会活動」に対して批判的な意見を
書き込むと、たいてい「読者の学会員さんが喜んでいるのだから」と
か、「活動できない人もいるのに」などと反論をされる方が多い。

何故、拙が「マネ」だと批判的に書くのかというと、ほとんどのネット
公開コミュニティは、「個人」が勝手に始めた自然発生的共同体で
しかないからだ。

通常、創価学会で行われている組織活動というと、居住している
地域や、また「人材グループ」など、学会内で公式に認められ、
同組織内の会員による責任者の下、個人の活動が行われている。
そういった、現場での組織内での連絡手段として、SNSなどの
サービスを利用しているのと、現場で非公認のコミュニティ内
で連絡を取り合い、その共同体への参加者を増やす目的で
SNSをつかっているのとは似て非なるものである。

自分が気に入ったリーダーを選び、その人と下で学会活動
をするなどということは、実際の学会活動ではありえないからだ。
そもそも、学会活動の大目的は広布拡大つまり「日蓮仏法の拡大」の
為に行われているといえる。
しかしネットでの疑似学会活動は参加者が所属する学会組織の
拡大のためになっておらず、共同体内の情報交換のみで完結している。
また、疑似学会活動をネットで公開実施するというのは共同体の
拡大の為にただ「宣伝」をしているだけだ。

今でこそ、「創価学会」や「聖教新聞」の広告はラジオやテレビ、電車内
の広告などでもみられるようになった。
しかし、小説・人間革命には、創価学会とマスメディアによる宣伝について
以下のように表現されている。

◎或る人は利口気にいう。布教に、ラジオを使うべきだ、テレビを
 使用すべきだ――と。
 何と浅墓な言であろうか。俗にいう、PRなど、学会には、絶対に必要
 ないのだ。
 これこそ、多くの新興宗教の取るべき、悪質な企業宗教の手段に
 ほかならない。
 正法は、断じて法を下げるような方法は取らない。
 取る必要がないのである。

【 小説「人間革命」第二巻 光と影(聖教新聞社、昭和41年)
                            116~117ページより引用 】 


学会員のバイブルなどと称される人間革命の内容は時代に合わせて
何度か内容が校正されている。上記はハードカバー単行本からの引用だ。
あるブロガーさんが、上記の内容と改訂版の人間革命、文庫版での内容
が違いを比較され、「今や学会は宣伝をしている」との持論を展開されている
が、そもそも、この話題は創価学会の布教活動における最重要の活動
のひとつと位置づけられている「座談会」についての、著者(池田大作)の
主張だ。
この引用をされているブログ等には、同箇所につづいて

◎この座談会こそ、牧口会長以来の、学会の尊い伝統なのである。

と段落を締めくくられているのだが、批評系サイトなどでは
引用すれども、この箇所が「座談会」関連についてのことだと言及して
いる、ブログは少ない。

実際に活動されている学会員さんならば、
「個々の会員の努力で開催されるべき、地域の座談会の参加者を
 増やすために、安易に一般マスメディアを 使ってPRをするのは
 法をさげてしまう」   という意味だと捉えることができるだろう。

さて、上記の部を一部の方は戸田城聖が発した言葉のように解して
いるようだ。
第二巻では、戦後まもなく戸田城聖を中心として創価学会を復興
させてゆくために、組織、および活動の原型を模索していくという
あらすじである。
テレビの本放送が昭和28年であることを考慮にいれ、引用した
部分は付記的表現あることから推察すると、当時の戸田城聖が
発しているととらえるのは難があるだろう。、
    
話を戻そう。
ネットにおける共同体を通じての疑似活動は、前述した学会伝統の座談会
とはなり得ない。
人気の高いロールプレイングゲームと同じで、コミュニティ内でリアル
とは違うロール(役割)を演じ、行動(時間)を共有にすることで刹那的
な充足感や個々の承認欲求を満たしているに過ぎない。

また、ネットの個人のブログで書き込まれている体験談やブログ発
の信仰イベントは、リアルの活動での真似事であるからこそ、共感
を得ることができるといっても過言ではない。

いくらネット上で学会活動や座談会の真似事を演じたところで
学会員として実際に活動を経験したことのない外部の方からみれば、
学会員同士のブログコミュニティは、愛好家同士が語り合っている
話題のように「なぜ盛り上がっているのか」を理解しがたい内容なのだ。
したがって集まってくるのは必然的に経験者ばかりになる。

ネットで時間に余裕のある婦人部や壮年部が、ただたんに、ダラダラ
交流をしているだけのコミュニティを「善の連帯」とか通常の学会活動と
同じだと、もち上げる方がよくいる。
単純に 学会員の集まり=善の連帯 ということなのだろうがはたして、そうだろうか?

大白蓮華二月号の巻頭言には 
“自分だけの利益を願う「信者」であってはならない”
との牧口初代会長の戒めが紹介されていた。

自分がハッピーでよければ、他の人のことは顧みない人は、
ただの「信者」だと言えなくないだろうか。


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