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人の死もネットイベント化するの?! 真実を語るウォッチ37 

アメブロでの「ちよ」さんブログ「心の扉」で、あるブロガーさんが
20日に亡くなられたという記事がリブログされていた。


しかし、その尊厳なる「人の死」をもって、ネットの信仰イベントに
してしまおうというのであろうか。
ちよ(たえ)さんは、今夜 “初七日法要” を行うという告知が
アメブロ記事でされていた。

https://archive.is/1oFPn


ハッキリいって、彼女は何様のつもりなのだろうか。

よく闘病をされながらブログを書いておられる方がおられたりするが、
遺族の方がブログ主が亡くなられたことを書き込まれ、御挨拶を
される事がたまにあったりする。
それは、ネット上とはいえ「縁」をもった方々への遺族から精いっぱい
のお礼だと拙はおもっている。

ご遺族はある程度,ブログ主さんの「死」を覚悟されていたとはおもうが、
喪主に頼まれた訳でも無く「法要」を行う旨をわざわざネットで
公表した ちよ(たえ)さんの神経を疑いたくなる。

本人ならともかく、他人の死や闘病といったテーマをブログ上の
信仰イベント告知につかう人がいるのだから、言葉を失いそうになる。

普通学会員さんならば、毎日朝晩の勤行で「先祖」や「友人」に対する
回向のお題目を唱えている。
それが最高の追善供養になるとの指導も多々ある。
しかし、「逝去を知った時に、法要を行わなければならない」という
指導もなければ、わざわざ個人的な宗教イベントをネットで告知
する必要性もない。

ならば、これ見よがしにブログで喧伝するのは
他人の不幸で自分の信心深さをブログで誇示したいだけではないか。

こういった不謹慎かつ人として恥ずべき行為は
本当にいいかげんにやめていただきたい。



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アンチ「ちよ」さんブログの意図

最近ブログ村の 創価カテ が振るっていない。

他のSNSの「イイネ」と同様に、ブログ村ではカテゴリーごとに
IN・OUT・PV(ページビュー)、人気記事のポイントランキングが
集計され公開されているのだが、かつての様相とはかなり雲行き
があやしくなってきたのだ。

初期の頃(すくなくとも拙がブログ村に登録したころ)の創価カテは
学会のイメージアップを図る目的で、現役活動家の方がブログ登録
されていた。 創価カテでの登録者は50名に満たなかったように
記憶している。
その中でも「毎日更新」をしている方や同一人物の複数ブログ登録
は7人にも満たなかっただろう。
記事の内容が優良かどうかといった評価はともかく、学会員による
学会ネタの記事はそれなりに需要があり、一定数の利用者がいたのも
事実だ。

しかし、だれでも見られて登録し利用できるパブリックなサービスで
「創価学会」の名を冠した麗しいお花畑があらされないはずなどなく、
日蓮正宗法華講員をはじめとする学会アンチ系ブログの登録も、ちら
ほらと出だした。
これに対抗した自称学会員さんも少なかったが、中には、「学会員」に
読んで貰うことを意図した「内部アンチ」的ブログが増えて来たのだ。

ブログ村創価カテ内では初期の頃は登録者の同志内交流を目的と
したり、本来ランキングルールの禁じ手である、示し合わせた上での
相互クリックや、同一人物の複数ブログ登録で“模範的学会員”の
ブログをランキング上位にすることで注目度をアップし、それが
「創価学会のイメージアップ」になると信じて疑わないブロガーさんが
多かった。

したがって、日蓮正宗門徒を公言するような、いかにもな
学会アンチさんのランキング内登録よりも“現役学会幹部”などと
いった肩書で、公然と組織を批判するものや、学会員らしき人間の
“模範的学会員ブログ批判”といった「 身内 」の主張に対し
一人のリーダー的学会員とその取り巻き 対 主張者 という
「イジメ」と変わらぬ構図で過剰ともいえるブログ村からの
排斥運動が勃発した。
それらは、現役学会員の どら猫 氏に対する「ナリスマシ疑惑」
事件であり、K阪氏に対する「恫喝事件」であった。
( 当時の詳細については拙記事をリンクさせておきます )

これらが、「イジメとの対峙」を趣旨とした「真実を語る」という墨田区
の婦人部さんのブログ管理人とその常連たちが深く関与していると
いう皮肉な実態はいままでの「麗しい学会員のつどい」といった雰囲気を
乱すには十分すぎるほどの効果があった。
最近、どら猫さんもK阪氏もブログを復活させたとはいえ、、両氏の
ブログは一旦閉鎖し、ブログ村カテからも追い出すことに成功したのだ
から、ブログ村創価カテ内のユーザーに影響をあたえないはずがない。

また、徒党を組んだ学会ユーザーによる「不届き学会員の追い出し工作」
は、局地的には成功したかもしれないが、自分たちの学会コミュニティの
ありかたに対しても疑問をもたれる結果となり、数多くの人物が同調し協力
していたことを反省されたのか去っていったり、コミュニティと一定の距離
を置かれるブロガーが多くなるという、ソフトな分裂状態が顕著になったこと
も記載しておかなくてはならないだろう。

これを、創価学会にイヤガラセをしたいだけの「愉快犯」が見逃すはずがない。

墨田区の「ちよ」さんをターゲットにしたブログ(以下アンちよブログと呼称する)
は、わざわざブログ村創価カテに登録をされた。
前口上ではブログ村での騒動を全部知っているかのように述べているが
読者に情報提供を求めるなど、不審な点がみられる。
いつまでたっても本来のテーマである「ちよ」さんに対する検証が始まらない。
最近ではもっぱら、拙の礼賛記事の作成に力をいれているようだが
“先生といわれるほどのバカでなし”で、皮肉めいた内容ばかりだ。

拙はアメ-バーにも登録をしているが、アンちよブログの設立者は
覗いていることが解った。 試しに魚拓のURLを投稿した直ぐ後に
アンちよブログにも同じURLをアップしていたからだ。
そのURLは「ちよ」さんが閲覧できなくしてしまったスレッドなのだが
http://megalodon.jp/2015-0228-1853-28/tomotiyoo.exblog.jp/23641347/
10月12日に拙が「つぶやいて」公開してから、次の日の13日に
アンちよブログで『汚れたち○ブログ』のタイトルで同URLだけが
掲載されていることが確認いただけるとおもう。
この魚拓元記事は「ちよ」さんが拙を揶揄“させる”ために
設置されたといえるスレッドなのだが、コメント欄を注目して
いただきたい。
拙を 褒め殺し(=必要以上にほめちぎることで、かえって
相手をひやかしたりけなしたりすること:goo辞書) している
捨てハンドルの人物がいるのを確認いただけるだろう。

この類いの人間と同じ、意図を感じるを感じるのではないだろうか。



関連記事

受賞取り消し事件と「いじめ」問題

過日、黒石市における写真コンテストの受賞取り消しが話題
になっていた。

アメブロで「いじめ問題」に取り組んでおられる尾木ママさんの
ブログを拝見しているのだが、書き込まれるコメントも含めて
感じたのは「いじめ」をなくしたいという多くの方の切なる思い
と、責任追求という問題が合成されたとき、いとも簡単に
騒動が拡大し拡散されていしまうという恐ろしさだ。

マスコミでいきさつに関しあまり詳しく報道されていないのも
問題だが、あらためて考えてみるに今回受賞取り消しで問題
になったのは「祭りの趣旨にそぐわない」という黒石市側の
コメントであり、それが一人歩きし感情的になってるように
おもえてならない。 そんなに、おかしなことだろうか。

もうすこし詳しく説明してみたい。
“黒石市の観光協会”が毎年ご当地の写真コンテストを募集
しており、今年もそのエントリーシートがHPに掲載されているので
みていただきたい。
「黒石よされ写真コンテスト」
http://kuroishi.or.jp/event/summer/kuroishiyosare/yosare_photoco
n 

お祭りの期間中に撮影され、応募されたものの
中から、審査をされ受賞が決まるとともに作品の
権利を黒石市に委ねる事が記載されているのが
確認できるのではないだろうか。
主催は黒石観光協会であることが明記されて
いるので、受賞作品は報道されるとともに広報誌や
HP、またイメージポスターなどにもされる可能性が高い
だろう。
また審査は主催者側を通じ第三者も含めた審査会に
よって行われるのが一般的だ。
この手のコンテストはお祭りを盛り上げる一環として
どこでもおこなわれているものだといえる。

ここで一般的なこととして知っておかなければならないのは
一般的な写真展の場合、受賞をするのはあくまで「撮影者」
であってモデルではないというごくあたりまえの事だ。
ちょうど良いタイミングで、弁護士ドットコムが写真家が
撮影した作品についての「著作権」についての記事がある
のでこちらもリンクに貼っておきたい。

学校行事で「プロカメラマン」が撮影した写真
購入後の著作権はどうなるの
https://www.bengo4.com/houmu/17/n_5214/
  

詳しい説明は省略させていただくが、プロアマ問わず、
撮影された作品の権利は「撮影者」に属する。
この考え方が基本的にあるため写真コンテストの入賞者は
作品および著作権等の移譲をすることが条件になっているのだ。

今回、黒石氏で受賞を取り消されたのはあくまで「撮影者」であり
その場合「著作権」は撮影者に属したままという事となる。
また、撮影されたのは「祭り」のテーマにそったものであることは
明白だが、つい最近(8月)いじめによって自殺してしまった未成年者
の「遺影」となってしまった状況を考えれば観光協会、および黒石市
が「著作権」を有しイベント用にその作品を使うのは、遺族感情も
配慮し道義的にも「趣旨にそぐわない」と判断しなおしたことが
考えられる。

ところがマスコミ報道では、写真コンテストと受賞作品ありかたを
一切説明しないまま『いじめ自殺の少女写真ふさわしくない』
(実際にはこんな表現はされていない)
『少女の家族は「バカにされたような気がした』等、行政側の
酷い仕打ちであるかのように報じたものだから、かなりの
騒動となってしまったのだ。
事実、尾木先生のブログに限らずネットでみかけた多くの
反応は、これらの報道に影響を受けていることが読み取れる
内容ばかりだ。

後に、黒石市は取り消しを撤回し市長賞受賞作品を再度おなじ
作品に与えたことは報道されているのでご存じの方も多いだろう。
黒石市は毎年「黒石よされ写真コンテスト」の受賞作品をネットでも
公開しているし、今年の受賞作品も閲覧することができる。
該当リンク
http://kuroishi.or.jp/event/summer/kuroishiyosare/kuroishiyosaresnap/yosaresnapphoto2016

黒石市長賞の写真には
“『姫が舞う』”遺族提供
(撮影者の希望により遺族の方に版権が譲渡されました)
と明記されている。

結果論かもしれないが、一度、受賞が取り消しになったことで
「撮影者」が著作権を遺族に譲渡できるようになり、遺族の方は
直接「黒石市長賞」を受賞することができたのだ。 


いまだに黒石市のこの対応を「ことなかれ主義」だとか批判する向き
もあるようだが、もし写真コンテストの主催者側が最初から市長賞を
「撮影者」に与えていれば、遺族が栄誉を貰う事もなかったであろうし
、遺族が遺影として画像を自由につかうことができないままだった
のではないかと思う。 
また、後々に
「自殺した子供の画像を関係者である行政側が使うのは不謹慎では
ないか」といった批判をうけて黒石市側が公開や使用ができなくなった
可能性だってある。

拙は黒石市側の説明不足があった感はいなめないものの、
「いじめ問題」と今回の「受賞」に関する件を、ことさら関連づけ
クローズアップしたマスコミの報道のやりかたは鼻持ちならない。
マスコミは「いじめ」問題に真正面から取り組み解決するつもり
などないのだから。














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障がいのある方への接し方

ある記事にこんな事が書かれていました。

※基礎知識は必要なのだ。だけれども、それが即、本人
 支援につながるというほど簡単なものではない、という
 自覚も不可欠なのだ。
 (略)
 必要だからやれと言われても、やったらそれは自分に
 とって偽善行為になるのである。

【メンタル不調の「9月病」にはどう接すればいいのか】
http://news.ameba.jp/20160921-207/


ブログやコメント欄に「うつです」等と病名をカミングアウト
されたり、障が者であることを公表されている方がけっこう
おられます。

その方々は素人の読者さんやブログ主さんに特に治療の
「助け」をもとめているわけではないのに、助けてあ・げ・よ・うと
必死になって接触を試みているブロガーさんがいる場合があります。

障がい者に対しても同じです。

いろんなケースがあるとおもいますが、そういった方
特に見知らぬ方とコミュニケーションをとるばあい
「病人視」したり「障がい者」として、扱って欲しいとおもって
ブログをやっている方はすくないと思った方がいいです。
ふとだれかとコミュニケーションをとってみたいという
欲求はSNSをされているかたならだれでもあるでしょう。

ところが社会的弱者とみるや、ここぞとばかりに「助けてあげなければ」
などといった安っぽい使命感で医師やカウンセラーといったプロの
真似事をしたり、便宜を図ってあげようと親切の押し売りをされる
方がネットにはいます。

リアルでは社会的弱者とふれあったこともなく関わろうともしない
人がネット上で慈善行為を企画する。
それってただの 偽善 じゃありませんか。

最近「君の名は」というアニメ映画が若者たちの間で人気なのだ
そうです。 また同じく「聲の形」というアニメが公開されています。

双方若者の恋愛物語というジャンルになろうかとおもいます。
拙は両方とも拝見しましたが、心に残ったのは「聲の形」のほうでした。
「聲の形」には、聴覚障がい者のヒロインがいじめにあったり、いじめっ子
であった主人公もいじめの対象になり孤立するといったかなり、メンタル的
に重たい内容が扱われています。
その映画の中でヒロインに謝ろうと会いにきた主人公に
「自分を満足させるためだけに来てるなら帰って下さい」
妹が告げるシーンがありました。
彼女もまたいじめられてきた姉を護るべく必死に生きてきたのです。

実際に病気をされている方や障がい者のおられる家族また
本人にとって、少しばかり助けてもらったところで、その生活が
劇的に改善され、楽になるわけではありません。
むしろ都合の良い時だけ、相手の弱みにつけいる形で自己
満足しようとしているのは、関わろうとしている自分では無いのか。
全体的にそういった問いを投げかけられているような内容でした。

慈善 と 偽善 の境目はどこにあるでしょう。

10/21 追加で拙ブログ記事
「偽善者のはらわた」をリンクさせておきます。


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使命をはき違えた可哀想な人: 創価の森ウォッチ 136

菊川氏のブログで現在「使命」についての記事が連載されているが
あまりにも稚拙な回答なので指摘しておきたい。

『 使命 』とは 
1 使者として受けた命令。使者としての務め
2 与えられた重大な務め。責任をもって果たさなければならない任務。
(デジタル大辞林)

つまり私的に頼まれ事を引き受けるといった依頼や、職や家庭といった
一般的な生活活動とは別に、大きな社会的意義の達成という意味を
持ち合わせている言葉といえるでしょう。 

転じて、人としての「生き方」 などを形容した言葉としても用いられること
もありますし、頼まれ事をこなす事など冗談っぽくを大げさに形容した言葉
として用いられることもありますが、基本的には自分の人生を懸けた社会的
問題解決の役割を認識した場合などに用いられます。
したがって使命とはいっても、目上から与えられる場合と自発的に
社会的命題解決に携わり続ける場合があるのではないでしょうか。

菊川さんは自称学会員さんの「自分に使命があると言われても
感じられない」という質問者からの回答として長々と説明を試みている
ようですが、その解説は支離滅裂で中には女性に対する見過ごせない
発言もあります。

最終的に菊川さんは、『 使命なき人生は、健康もお金もないに等しい 』
などと持論を述べ、自分のように使命を感じた人が幸せであり、そうでない人
は「不幸」だと断定する大変失礼極まりないレッテルを貼ったのです。
使命感のあるなしで幸・不幸を捉えるのは、日々生活にいそしんでいる人
多くの人々を見下した傲慢な言い方です。

さらには、だれに頼まれた訳でも無く自分が勝手に企画したネットイベント
「ひらがな御書」のサイト完成目標達成が「使命」だと自画自賛するに
至りました。
個人的に使命感を感じることと、それが創価学会員としての使命かとうか
は別次元の問題です。
そもそも、質問者さんは自分や自分の親のやっている信仰の意義としての
「使命」が理解できないという質問のようです。
ならば、創価学会員としての「使命」とはどういったものなのかを
指し示し、どのようにすれば「使命に生きる」ということになるのかが
回答になるように思うのですが、およそ共感のできない「マイイベント」の
目標を創価学会としての「使命」であるかのようにすり替えてしまっているのです。

このような回答をされたところで、質問者さんはネットでなにかを
起こしたいわけでもないですし、回答者の菊川さん自信が
「使命は得ようとしても即座に得られるものではありません」と
質問者を制しているのですから、質問に答えたことになって
ないのです。

また菊川さんはネットを通じ「自分で目先の目標」を見つけた
にすぎません。 それも事実上「ブログの毎日更新」の為の手段
の一つでしかありません。
それが証拠に「使命」であるはずの ひらがな御書 よりもその他の
どうでもよい事にばかり時間を割いているではありませんか。
また、ネットを通じ個人サイトで宗教教義にかかる情報発信をする事は、
師匠とする池田先生が指導された内容にもなく経文に書かれたこと
でもありませんので学会で指導される所の「使命」にもあたりません。

しかし、菊川氏は言います。
『 ですから、どうしても使命が必要なのです 』 

どうしても「使命が必要」ってどういう意味なのでしょう。
物事を続けるためのモチベーションを保つための方便として
「 使命 」という言葉を弄んでいるのではないでしょうか。
まして、個人のサイトのネットコンテンツを創りあげることが
使命なのであれば、人に頼んで作業を分担させるなんて論外
ではないでしょうか。
彼は一度は撤退宣言をしたのにネットを続けています。
そうするためにも「目的」の設定が必要なのでしょう。

くりかえしになりますが、菊川さんのされていることは、
ネットで知り合った人がやっていたことにヒントを得て
人を集めて協力させて創り上げているのは「個人的なサイト」
であってそれは創価学会会員として多くの方がめざす普遍的
大目的である 「使命」 と相容れないものです。
彼は自分がネットで活動する目的を、崇高な理念の実現行使である
はずの「使命」に仕立て上げて自己陶酔をしているのだと考えます。

残念な事に、時々ネットでは「個人的利益」を「功徳」と言い変えたり
SNSのコミュニティを「座談会」だとか「同盟」などと言い換えて
無警戒な学会員さんを引き寄せる事に必死になっている方がでて
きます。
そういった、紛らわしい個人的宗教活動に組みすることは慎みたい
ものです。

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功徳がでている人は組織活動をされている

聖教新聞を拝見したり、実際の現場をみていて
「 功徳がでている人は組織活動をされている 」 と
率直な感想を述べると
「組織につかないと功徳は出ないというのか」と反発される人がいますね。
また、どういう状態が組織についていることになるのか具体例を示せ
などと聞き返す人がいます。

よく 感謝のお題目を という指導をされる場合があります。

まず考えられるのは、御本尊様に感謝のお題目。
その次に 創価学会三代への感謝のお題目。
毎日、朝夕の勤行ではこの順に御祈念文がありますね。

感謝できなければ御本尊様(仏)に対する「供養」としての
お題目をあげられません。
感謝できなければ、師匠の指導も上の空。
また恩には報いなければなりません。 知恩・報恩ですよね。

学会員としての報恩の御祈念文(誓願)が、四つめの
創価学会の興隆御祈念です。

そのあとに「自分のこと」を御祈念してますよね。

毎日の勤行で、なにに対して感謝をしているのか。
いくらきれい事を述べても、それは行動や言葉に表れています。

組織活動といっても多岐にわたっています。
具体的にしめさずとも、真面目な学会員さんなら解ることです。
地区部長さんに聞けば、いま現場でなにを目指して活動しているのか
解ることです。

得手不得手はあるでしょうけれども、学会として同志の
方がされている様々な活動にチャレンジをしようとされている方と
自分の好きなことだけをやり続けている人の差もまた、行動に表れています。

本人はそれに気がつかない(意識していない)からこそ、
冥益であり冥罰として現証が現れていることになるのですね。

『 御本尊よりも人が優れている 』と主張して止まなかったのは
冥の現証がでてしまっているといえるのです。

『 特定の場所に安置されている御本尊だけが優れている 』など
と主張して創価学会を批判し、組織活動を否定している人もまた
冥の現証がでてしまっているのです。

また
『 インターネットを通じて同志と仲良くなった 』という事実をもって
新しい学会の活動の1つであるかのように喧伝して、組織活動より
もネットコミュの存続に力をいれている人も、冥の現証がでてしまっている。

そうおもえてならないのです。
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