なぜ日蓮大聖人は「曼荼羅を拝みなさい」と書かなかったか

(初出 2014/2/28 : 2014 3月記事ランキング 2位 5月記事ランキング7位)

拙のところに寄せられた感想の中に、大勝利さんと宿坊さんの主張していることって
おなじなのではないの?というものがありました。

結論からすると「いいえ」です。

大勝利さんは、私見とまえおきされましたが、宿坊殿やロム男さん、私の主張も
「私見」にちがいありません(笑)

ただそのうち、大勝利さんは明確に
「日蓮大聖人は曼荼羅御本尊に唱題はされていない」と書かれました。
宿坊殿は「曼荼羅本尊に唱題されているというなら文証を示せ」と督促されている
だけです。
大勝利さんのように曼荼羅を唱題の対象である「本尊」としていないという訳ではなく、
宿坊殿は大聖人は「一尊四士」の形で釈尊立像「にも」唱題されていたのでは?と
言われているだけだと思います。

後に宿坊殿からは、大聖人が門弟に曼荼羅本尊を与えられた意義を自分なりに説明
いただいているので、 http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs/15015
日蓮大聖人ご本人が曼荼羅に唱題をされていないという趣旨での「文証提示督促」では
なかったと考えられます。

で次に宿坊殿の素朴かつ重要な疑問がなげかけられます、
「ではなぜ日蓮大聖人はズバリ曼荼羅を末法の本仏として拝みなさい」と他の御文に
明記されていないのか?と。

ここでは日蓮大聖人が「開祖」であり、「末法の凡夫」を化導する「地涌の菩薩」の棟梁で
ある立場がポイントになります。
例えば、 現在の官僚、つまり国家権力を施行する人達も「明確」にされている部分と
「あいまい」にされている答弁があるでしょう。 法律でもまた同じです。
憲法は「解釈」で意味合いを変え、憲法の理念を下地に五法(民法・商法・刑法・
民事訴訟法・刑事訴法民法)がありますよね。
国家の基本たる「憲法」は、おいそれとは変えることはできませんが、以下の五法は
時代や事件に合わせてどんどん付則や改正が増えていってます。
つまり、「理念として固定化」されている部分と「その理念をもとに変化しうる」部分が
あるわけです。

「変化しうる」部分は、曖昧な表現にあえておさえられている場合があります。
ちょっと前に「秘密保護法」の適用例がどんなものであるかが大変な議論を呼び
拙ブログでも記事をかかせていただきましたが
AとBとC 等と限定されていない表現であったために、解釈次第では表現の自由
がおびやかされる というものでした。
国家に対するテロリズムは、今後あらゆる方法が取られることが予想されます。
現在でも「爆弾」をつかわずとも、プログラムで「システム」を停止させることで社会を
大混乱に陥れることも「テロ」の範疇となりました。
前述したように、今後「テロ」がどういう形をとるかにおいて定義を「AとBとC」を
テロとする・・という限定したものにすれば、Aから派生したAa法は定義された
Aではない(A≠Aa)となるため、テロなのかどうか?といった判断からしなおさなくては
ならず、緊急を要する場合には不都合です。
特に「禁止行為」を定義する場合には対応の幅を持たせるために、あいまいにされて
いるものがあります。
いわゆる「合法・脱法ドラッグ」も同じようなものでしたね。
「禁止薬物」として明文化されていないがゆえに、類似する薬物ならば「合法」という
考え方です。
現在では改正されましたので、「~~系薬物」の所持で逮捕できるようになりました。

話を戻しましょう。
日蓮大聖人は開祖であり、、「末法の凡夫」を化導する「地涌の菩薩」の棟梁である事は
創価学会員さんならば共通の認識です。
もっというなら創価学会以外の宗派でも、そのようにとる日蓮系宗派はあります。
でも後世の「人師」の見解の違いで、日興門流の中でも数多くの「宗派」がうまれました。
日蓮を誹謗する人の中には、数多くの門派が生まれた事実をもって、日蓮の教え
そのものが「欠陥」であるとする人もいます。
はたしてそうなるのでしょうか?

確かに日蓮大聖人の御書を紐解いても、解釈のちがいがあります。
それは、あえて明言されていない事が理由の一つになるといえますが、明言されて
いないからこそ大聖人を「師」とする門弟の感性や表現が様々ありえるのです。

大聖人はあえて、「末法の本仏とは」というテーマで様々に表現をされています。
あるときは「久遠実成の教主釈尊」、またあるときは「妙法蓮華経の五字」であったり
相貌は「一尊四士」であるとされています。
あえて多様な表現をする事で、あとは弟子の「信」にまかされているともいるのではない
でしょうか。

「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん 心こそ大切に候へ」
(千日尼御書)
「いかに日蓮いのり申すとも 不信ならばぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし、
 はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし」 (四条金吾御書)


一人一人の「信心」によって確信をえる以外にない と仰せなのだと思います。

幸いにして創価学会が出現以後、大石寺の堀日亨上人が、門徒には公開していなかった
「秘文」を悉く公開されました。
これは堀日亨師が言われたように、大聖人の教えには「かくすようなものはありませんよ」と
いうメッセージだと思うのです。
日蓮大聖人もまた、門弟に対して仏法の真髄(奥義)を隠すことをされませんでした。
御供養をされた門弟、質問をされた門弟に対して経文や論説をひいて子細を
説明されています。

ならばこそ、あとは私たち一人一人が「大聖人のお心」を自分なりに拝する「余裕」が
できるともいえるのです。

戸田先生は指導されています。

-------
◎我が日蓮大聖人の戒成慧はどうか。
 戒律は、釈尊の戒律は用いません。ですから、「破戒にあらず,持戒にあらず、
 無戒なり」と おっしゃっています。
 これは、釈尊の戒がないという意味なのです。
 よく末法無戒だというと、末法には戒がないから何をやってもよいと思いがちです。
 ところがそうではないのです。
 釈尊のこしらえた戒律がないということで、思いちがいしてはだめです。
 日蓮大聖人には「金剛宝器戒」(教行証御書一二八0ページ)という戒があります。
 これは、自分でやらなくてもいい、ひとたび御本尊を受けたら、退転しようがなにを
 しようが、御本尊とは離れられない。
 これが金剛宝器戒です。
 (略)
 ですから、御本尊を拝んでいることが、すなわち戒定慧の三学をやっていることに
 なるのです。
 別々にならないのです。
 「南無妙法蓮華経」これで戒定慧をうんとやっていることなのです。
 智慧も増すのです。バカが利口になるのです。

(戸田城聖先生質問会集 163~164ページ)

------------

ですので、同じ学会員さんが、忌憚なくそれぞれの「御本尊」の考え方をぶつけ合った
としても、毎日御本尊様にお題目をあげているのですから、意見を出し合っている行為
を指して「創価読み」だとか「身延読み」だとか、そういった断定的批判をするだけならば、
いかがなものでしょう。
一信徒の一人一人の意見として交わしあうことができるのも、これ信頼あってのものです。

もし私が、宿坊殿やロム男さん、秋晴れさんや大勝利さんを、強く言ったら退転するかな?
等と「信頼」していないのなら、はなっから反論しませんしできません。
もちろん私の主張に反論される皆様も同じ気持ちではないでしょうか。
皆、御本尊様にお題目をあげている方、地涌の菩薩の眷属であると尊べるからこそ、少々
叱らるようなことがあっても私はなんともありません。
拗ねたり妬んだりバカにしたところで、全部自分に返ってきます。

教学を深めるためにも、もっともっと皆さんで語り合うべきではないかと思うのです。

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