安土宗論と織田信長の政略

浄土宗が勝利したとされる安土宗論。(安土問答ともいわれます)
信長公記(しんちょうこうき)では「法花・浄土宗論の事」と書かれています。
結果的に浄土宗側が法論に勝ったとされ、日蓮宗側は厳しい沙汰をうけました。

築城を終えた安土城下でなぜ、浄土宗と日蓮宗の対決があったのでしょう。
単に宗門の優劣を信長が見極めたというには、不自然だとおもいませんか?
織田信長が天下統一に向けて着々と駒を進め、幕府朝廷のある京都を
手中におさめんとしてていた最中での出来事であり、安土宗論以前に洛中で
起こった法華宗の一揆(天文法華の乱)といった社会的・政治的状況から
考えければいけないと思います。

天文法華の乱は、一向宗(浄土真宗)が京都に勢力をのばしつつあった
事に危機感をいだいた日蓮系教団(六条門流)が排斥運動をしたとことに
端を発するものですが、これ以外にも日蓮宗は比叡山に対しての法論なども行い、
室町幕府のお墨付きを貰っていた事もあって、当時洛中ではかなりの影響力が
あったと推察されます。
(参考リンク)
天文法華の乱:京都市のページ 
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html


そこで注目してほしいのは当時(室町)南近江を治めていた「六角氏」の存在です。
「六角氏」は天台側(比叡山)につき法華側の寺院を焼き討ちし法華一揆を
平定においこんだ守護大名ですが、その出自は近江源氏の「佐々木六角」。
そしてその佐々木を氏神としているのが安土にある「沙沙貴(ささき)神社」です。
日本の佐々木さんのルーツとされる神社であり、安土宗論が行われた浄厳院の
すぐ近くです。
参考リンク:沙沙貴神社・白州正子の愛した近江)
http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/area/spot04_10.html


浄厳院付近の地図リンク:国土交通省
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=136.13469956676&latitude=35.135600433625

なぜ浄厳院と沙沙貴神社が隣接しているかというと、
もともと佐々木氏が建立した天台宗の寺院慈恩寺が戦火で焼失。
安土城を建設する際に、城下町を再整備したのですが、焼け跡に建立した
ものが浄土宗浄厳院なのです。
その寺に浄土宗の僧を呼んだのは織田信長です。
(浄厳院の住所には佐々木所領時代の「慈恩寺」の名が残っています)

織田信長は近江源氏・佐々木の所領の象徴であった天台寺院の名残のある
安土に浄土宗を置き、また六角との遺恨がある日蓮宗にも睨みをきかせる方策を
とったというのが安土宗論の意図だったといえるでしょう。
なぜなら浄土宗浄厳院は、近江・伊賀における浄土宗本山との格付けを与えられて
開山していたからです。

宗教の正邪というよりも、だれに安土を治めさせるかといった政治的なイベントの
意味合いが高い。
これとは別に信長は、延暦寺を含む滋賀県内の天台宗の寺院にかなりの圧力を
かけ、その勢力を奪っています。
延暦寺の焼き討ちは後世に、坂本の町のほとんどを焼き、僧侶や女子供を
惨殺したかのように伝えられていましたが、発掘調査を行ってもその痕跡が
みつかっていません。
たしかにいくつかの堂宇は燃やされたようですが、俗説にあるような事実が
確認されないのです。
なぜ信長が天台宗を目の敵にしていたかというと、彼が浄土宗を信仰していた
からというわけではありません。
近江は奈良平安の時代から公家や延暦寺の荘園が多数あり、その領地・領民を
治めていたのが佐々木をはじめとする地方の武家と天台宗だったのです。
また佐々木氏はみずからを宇多天皇の皇子、敦実親王の子孫とし、平氏との
合戦の折には源頼朝の挙兵にも加わっています。
天台宗は天皇家と直接関わりのある血縁者が座主をつとめているのです
から、旧勢力(幕府や朝廷)の財政力を削ぐには地方の武家や精神面で
支えていた天台宗が邪魔な存在でした。
(特に天台宗は武装法師「僧兵」という軍事力を持つことを朝廷から許されていました)

信長は実際に所領を治めるにあたって宗教が持つ民衆統制力を軽視していた訳では
ありません。
天台を退けたとはいえ、その座を空位にしておけばその他の宗派が入り込んでくる
事が予想されたことでしょう。
だからこそ、織田信長は、当時、朝廷や幕府・現地の武家との関わりが薄かった
浄土宗を近江の統治に用いたのです。
滋賀県には中世の時代に支配者の変遷とともに改宗や廃寺にされた寺が
ゴロゴロあります。

しかし、織田信長が天下統一を目指していくなかで、各地で起こった一向一揆
(一向宗=浄土真宗)平定にはさらに手を焼きました。
一向宗も僧兵をもち、領地を持つ地方の武家、農民兵までを相手にせねば
ならなかったからです。
延暦寺焼き討ち皆殺しの俗説はそういった一向一揆の平定での所行と混同
されている事が考えられます。

最終的に法華宗の本能寺で信長の命運が尽きたのも、宗教を手玉にとった
彼の宿業だったのかもしれません。
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