ニセ本尊論者の利根と通力 【邪】

( 初出 2012/11/17 )

創価学会退転者やアンチ学会活動家の日蓮正宗門徒さんがよくつかう
「ニセ本尊」論とはどのように表現されているのでしょう。
一例をあげてみましょう。
「仏像(本尊)をみて気分が悪くなった」
「逆に日蓮正宗寺院にいくとすっきりした」等のオカルティックかつ扇情的な
個人感想が主体になります。またこれが体験談としてもちいられます。

(参考リンク:不幸を呼ぶ創価のニセ本尊)
http://megalodon.jp/2012-1116-1616-00/myousoujishinto.seesaa.net/article/301963553.html

日蓮正宗教義啓蒙ネット活動団体の責任者ですら稲川淳二さんなどを引き合いに
だし、ただ不安を煽るだけに終始していることが魚拓先を見てご理解いただけると
思います。
法華講員さんの折伏レベルはこの程度のものです。
この感覚(知覚)的本尊比較が「自分本意の他力本願」であることは先日
述べさせていただきましたが、教学的にはどうなのでしょう。

日蓮大聖人は法の正邪を見分ける場合に
「法門をもて邪正をただすべし/利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄)
(補足説明)
【利根=その人がもつ仏法を理解できる資質 転じてひとりよがりの浅薄な仏法理解】
【通力=修行の結果得られた、または生まれながらに持ったとされる超人的能力・神通力】


と仰せです。
また、涅槃経を引いて

涅槃経に云く「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云、愚癡無懺(ぐちむざん)
の心を以て即心即仏と立つ/豈(あに)/未得謂得未証謂証の人に非ずや。 (蓮盛抄)

(補足説明)【愚癡無懺=他者に愚痴をこぼし、またその行為を反省しない様】
  【未得謂得未証謂証=未だ得ざるを得たりと謂(い)い、未だ証せざるを証せりと謂えり。
  未熟なものが悟りを得たと錯覚する事】


等々、揺れ動く自分の感覚や感情を根本にして安易に仏法を判断する事を戒めて
おられます。
つまり「オカルト判断」で正邪を区別する事は大聖人の心にすら背いているのです。

日蓮正宗元法主阿部日顕は自らが「オカルト体験をした」事を公言し信徒の歓心を
得ようとしているのですが、それと同じ感覚であろうことか御本尊様を誹謗する
愚かな行為をやっているのが現在の日蓮正宗門徒だといえるでしょう。


しかし残念ながら一部自称学会員さんの中にも利根と通力があるかのように
振る舞っている人がおられます。
個人的な小さな功徳や小さな罰で「地涌の菩薩」の信心を計ろうなどというのは
未得謂得未証謂証(未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり)
と同じだと自省していただきたい。
そして日蓮大聖人が「人を供養すれば仏になる事疑ひなかりけり」(南条殿御返事)
と断言されているのにもかかわらず、自分の可能性を信じられないが故に他人の
可能性をも否定し「不信」に陥るという退転パターンを忘れないでほしいです。
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