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日蓮大聖人は御本尊に唱題をしていたか

( 初出 2014/2/25 :元題 日蓮大聖人「御本尊非唱題説」と末法の本仏論)

ある学会員さんが日蓮「曼荼羅非唱題説」を掲げて、こういった反論を
されていました。


大聖人が御自分で書かれた御本尊を拝んでいたとは考えられません。
唱題はしていたと思いますが、曼荼羅御本尊には向かってないと思います。
そのうえで釈尊像には祈念していたと思います。
ですがこれは「神天上の法門」ですね。
悪鬼の入った神社に諸天が戻るように祈念するものです。当然これは本門の戒壇
にも通じます。
一尊四士は日興上人も当然にご存知だと思います。
大聖人、興上、目師とも本門の戒壇の建立は遠い未来とは思ってなかったんだと
思います。

(大勝利さん談 2014/2/24)



--

※私は「大聖人が御自分で書かれた御本尊を拝んでいたとは考えられません。」
 と言ったのですよ

※「新池殿御消息」が文証にならない理由として、私は文永七年十月の大豆御書を
 挙げましたね。
「大豆一石かしこまつて拝領し畢んぬ法華経の御宝前に申し上候」文永七年十月

法華経の御宝前とは曼荼羅本尊ではないですよね?なぜなら文永七年にはまだ
曼荼羅御本尊は顕されてないですから

(大勝利さん談 ‎2014‎年‎2‎月‎28‎日)

///////////////////////////

なるほど。
大勝利さんの主張の根拠となる文証は証されていませんが、なんとなく解る
気がします。
しかし、単純に考えても末法未来歳に渡る救済の為に顕されたとされている
御本尊様を、日蓮大聖人が拝まないというのならば、なんらかの理由が
必ず書かれていると思います。

興味深いのは、宿坊殿の御本尊観が「創価読みではない」と騒いでいた
秋晴れさんが、大勝利さんの論をみてあっさりと「この件は終わりにします」
と手を引いたのが気になりますね。
教えを請うていたはずの大勝利さんが、「日蓮曼荼羅非唱題説」を唱えている
のですから、マズイとおもわれたのかも。

たぶん、御書に直接的に大聖人が勤行次第について直に書かれていないから
こういった錯覚をおこされているのだと思います。
在世の時に門下に対しても、法華経のどの経文を読めば良いかという質問に
答えられていたり、厄年に釈尊の像をたてて供養された門下に対しての
お手紙が残っていたりしますが、これを元にして
大聖人は釈迦造立派だったと主張されたりする人や教団もありますが、また話が
ちがうでしょう。

(例:yahoo知恵袋 日蓮大聖人はご本佛ではない!こ本佛は釈尊のみ。)
 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n13660

また日蓮大聖人御自身が「本仏」なのだから、大聖人だけは曼荼羅を拝む必要が
なかったという理屈いう事も考えられます。
「日蓮本仏論」を述べる際には、こういった人(曼荼羅非唱題説)たちがいると
いう事を考慮しなくてはいけないでしょうし、「日蓮非本仏論」を述べる際には
御書を用いて教主釈尊像を立てるといった理屈に乗せられないように気をつけ
なければなりません。

いずれにしても「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」
(種々御振舞御書)の御文の意ではなく「義」こそ、南無妙法蓮華経を唱えている
宗派の人が一番考え続けなければならないテーマであることに変わりありません。

氏は再度「日蓮は書写された曼荼羅には唱題していない」と念を押しておられ
ます。
その論去は「勧心本尊抄」以前(佐渡流罪以前)に、現在私たちが唱題している
相貌をもった御本尊が顕されていないから・・という理由のようです。

しかしこれは完全にミスリードです。
創価学会員が下付している形の相貌になった御本尊でないから、佐渡流罪以前の
鎌倉期には曼荼羅を本尊とされていなかったかどうかといった「期限的」本尊論を
論点にしているのではないことは明白なのです。
この主張は、日顕宗が「創価学会はかつて法主を尊んでいたではないか」という
強弁と同じです。
外交問題においても、韓国が「河野談話」を用いて、慰安婦問題を事実として
いるようなもので歴史問題は常に「あたらしい発見」があれば、その解釈も変遷
していくものです。

日蓮大聖人とて、「基本理念」はもたれていましたが、それを曼荼羅に顕される
まで試行錯誤をされていたであろうことは、残存している真筆本尊の変遷をみれば
理解出来るでしょう。

ロム男さんも指摘されていましたが、明らかにそれまでとは違う相貌の曼荼羅を顕し
、弟子に「本尊」として下付されているのですから、それ以前がどうだったという
理由で否定をするのは詭弁です。

いわゆる「伝統論証」
http://ronri2.web.fc2.com/kiben02.html

しかし反論している我々もまた、伝統論証に陥ってしまう傾向があるので
要注意です。
(例:今、創価学会が曼荼羅を拝んでいるのだから、日蓮大聖人もそうであった)

宿坊殿やロム男さんも指摘されているように、「これが本尊だから“唱題”しましょう」
といった教導的表現をされている御文はありません。
日蓮大聖人自らが「末法の本仏」と宣言されていないのと同じです。

両論併記状態ですが、共通しているのは「本尊に対して唱題(拝する)」をするという
形は何れの方も否定されていないのですから、じゃぁどんな形が「一尊四士」であり、
具体的にどのようなものが「末法に流布すべき本尊」として拝されていたのかを
言及せねばならないでしょう。

大勝利さんは私の
『ど・の・よ・う・な・形が一尊四士なのか、具体的にご教授願えませんか?』
の問いには答えられていません。

曼荼羅ではない、随身仏ではない・・・といったような謎かけで終始すれば
言葉遊びの範疇を超えられません。

現在の創価学会においては、日寛上人書写の御本尊を下付していますが、それ以前の
日達書写、もっと前の日淳書写のものを本尊とされている方もおられるでしょう。
もちろん日顕書写の御本尊を拝されていた方もおられますが、今はまずお見かけしません。
日寛書写の御本尊を創価学会が下付しはじめたころ、取り替えは「本人の意志」でされた
ものです。
全国の学会員さんに対して一斉に強要した訳ではありません。
どの法主が書写した御曼荼羅を本尊とするか、会員さんの自らが選択したのです。

当時の創価学会が「大聖人様が書写されたもの」を選択していない事からも、御本尊様
は師弟の儀と「信心」とを両立して「受ける」ものだといえるでしょう。
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