お仕着せの善意:創価の森ウォッチ118

菊川広幸さんが、相変わらずネットで知り合った「視覚障がい者」さんの
「千早」さんに対してのメッセージを公開しておられます。

本来「千早」さんに成り代わって、個人的に始めたはずの「ひらがな御書」計画。
自分以外の学会員さん数名を「ボランティア」として参加してもらったうえで
原稿を送ってもらい、その原稿を都内の教学部員さんに推敲してもらったものを
菊川さんの個人的サイトにアップするという方式をとっているようです。

しかし、「ひらがな御書」HPを拝見するかぎり、昨年春に入稿された
「ひらがな下し文」の原稿が未だに放置されたままですし、新たな原稿は
“受信”すらされていないようです。
(スタッフ資料より)
http://hiraganagosho.web.fc2.com/g.html

その代わりにとういう事なのでしょうか。
菊川さんは、千早さんをネットに引き出す為に相手体調を気遣うことなく
『前略千早さま』シリーズの公開呼びかけをされています。
個人的な呼びかけなら、メールをつかうなり電話でもしてあげれば手っ取り
ばやいと思うのですが、菊川さんは「シリーズもの」に仕立て上げて第三者に
も、自己の善意の語り掛けをアピールします。
千早さんのやさしい性格上、「記事」として紹介されたからには「返信」がわりの
記事を書かれるでしょう。
反応をしなければ、他の「善意」の読者から心配されてメールや電話をよこされ
てしまいかねません。
仕事をするのもつらい、人に会うのもつらいという症状を訴えておられるにも
かかわらず、しずかに「影から見守る」ことができない「善意の応援者」さんたち。

2015/1/14付けの小説、新人間革命に「自分が喝采を浴びたいスタンドプレーヤー」
「ヒロイズム」や「自己陶酔」に陥った人の共通点が指摘されていました。

曰く

◎仏法で説く生命の因果の理法も、冥の照覧も、確信できずにいること
(広宣譜45 2015/1/14付 聖教新聞より引用)



たとえば「千早」さんを例にあげるますと、彼女が現場で困っていること
があるのなら、彼女自身で解決できることは、していかなくてはなりません。
他人は、一時的に助けることは出来ても本人が境涯革命することが信仰
のうえでは一番大事な目標です。
「病」にしても「悩み」にしても「経済的困難」にしても私なら肩代わり
できるとおもっているのなら、それは傲慢だとおもいます。
また「冥の照覧」・・つまり誰が見ていなくても御本尊様は見てくれているとの
確信がないからこそ、みずからをひけらかし、他人に好い評価して欲しいという
個人的欲望の底なし沼にハマってしまうのではないでしょうか。

「お仕着せ」は多くの場合善意から発するが,
  その善意はつぎのことを考えない独善である
(道具の押しつけ より引用~) http://m-ac.jp/internet/freedom/indifference/foist/index_j.phtml


というのは余所様のHPにあった格言ですが、まったく私も同感です。

このように書くと、「あべひ」さんの批判こそ善意の押しつけてではないか
との批判があるでしょう。
私のような場合、すくなくとも相手に「善意」だとはとらえられていません。
むしろ、拙の「悪意」であり「誹謗」であると感じている人がいるでしょう。
しかし、よく考えてみて下さい。

善・悪といっても、その場の感性で判断できるものではありません。

たとえば、学会を反逆し日顕宗に墜ちた山崎正友や原島嵩(いずれも故人)
も、いまだからこそ「悪人」だといいきれる根拠がありますが、両人とも
創価学会員であるときは「善」をなしている活動家だと、大方の学会員さん
また大幹部にも認識されていたでしょう。
このように「善人」のような「悪人」もいるのです。
大事なのは、しっかりと 「先のこと(影響)まで考えているか」だとおもうのです。

さて、ある非営利法人さんのサイトに、障害者ランニングを20年続けて
おられる方が「お仕着せの善意」について、このように指摘されていました。

◎「障害者のために何かいいことを」という気持が強い人ほど、むしろ、
 ボランティア伴走から離れて行くのも早い。
 「いいこと志向」の動機づけは、それはそれで尊ぶべきかもしれないけれど、
 あまり善意の思い込みが強いと、えてして、障害者の感性とかみ合わない。
 ついには、当人も伴走で組んだ相手の障害者も、共々に疲れてしまう。

(伴走の共生システム:NGOブラジル人労働者支援センターHPより抜粋引用)
 http://www.ongtrabras.org/jp/index.php?option=com_content&view=article&id=162&Itemid=152


上記のケースは「障がい者のために」という視点で書かれていますが、
これは「うつ病の人のために」「困っている学会員さんのために」等々
言い換えることができるとおもいます。
助ける者、助けられる者がお互いの気遣いで疲れ果てて憔悴していく。
はたしてこれは「善意」といえるのでしょうか。

一番大切なのは、「代わりに助けてあ・げ・る」ではなく、相手にとって
自分は「伴走者」に過ぎないということを心に刻んだ上で、出しゃばるの
ではなく「相手の変化」に常に留意するように訓練することだとおもいます。

これは「信心のありかた」についても同じ事がいえるのではないでしょうか。





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