人は仏よりも優れている?「人本仏迹」の邪義 2


人は仏よりも優れている?「人本仏迹」の邪義1

の続きです。

※『勤行とは、我が生命と宇宙が御本尊を介して交流しゆく儀式である。』
 (略)
 主体はあくまで人間!!!
 人が主、御本尊は従。

( 沖浦さん談 2014年5月28日 )



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大白蓮華2014年6月号この段 【変革は祈りから始まる】での「主体」とは、 
沖浦さんの主張の「仏が迹」に対する人・本ではありません。
あくまで祈る側の信心によって(主体)、御本尊を対境としお題目をあげることで
結果が出るという意ではありませんか?
同107ページには明確に指導されています。

◎祈りとは、決して観念ではない。
 現代人の目からすれば、目に見えない生命の世界は観念の産物にすぎないと
 考えるかもしれません。
 しかし、もし物質的な観点だけで物事をとらえていったならば、人と人との関係、
 人と物の関係の大部分が、偶然の混沌の中に埋没してしまうでしょう。

( 大白蓮華 2014/6月号 107ページ 「『祈祷抄』講義」から~ )


沖浦さんが常々、御本尊に対して「物体」としての観点から述べられているがゆえに
人と御本尊の関係が混沌の中に埋没してしまっているのです。
過日の小説、新・人間革命にも「体験」についてこのように述べられていました。

◎体験と聞くと、信心によって、赤字だった会社の収益が何倍にもなったとか、
 病気を克服したという話を思い浮かべがちですが、それだけではないんです。
 ご主人が病に倒れていても、奥さんが強い心で奮闘し、明るく頑張っている
 ということも、見事な体験です。
 八十代になって腰も曲がり、耳も遠くなっているが、日々、生き生きと、楽しく
 学会活動に励んでいるということも、すごい体験ではありませんか。

 ( 激闘 56 2014/5/27付聖教新聞より抜粋 )



沖浦さんだけでなくとも、体験というと、世間上の実績に囚われているかたが多い
ですね。幹部でもそういう方おられます。
物質的かつ経済的な「蔵の財」、健康や名誉などの「身の財」にこだわるあまり、
どんな状況であっても“主体的に”学会活動に励んでおられる事が自体が評価
できないのだと思います。

特に過去の実績に囚われている人は、往々にして自分の体験が基本となり
それと同等か心から感服できるだけの「名声(実績)」が全てになります。
たとえば、同じ事を言われても地区部長の意見は「たいした事」ではなく
教学部長や県幹部の意見は「重要だ」といった、錯覚などがあるでしょう。
自分から自慢する人や、おもねって近寄ってくる人よりも、影の功労者に光を
向けられるのが指導者の条件の一つではないでしょうか。

さて話を戻します。
「御本尊は道具」と割り切っている人や、功徳を疑ったり、とにかく助けて下さい等々
なまっちょろいお題目を御本尊様に何時間あげても、自分なりの結果しか出ません。
ちょうど今月(2014年5月)の座談会御書(呵責謗法滅罪抄)は、
「法華経の行者の祈りとはどういうものか」という視点で講義をされています。
超簡単に言えば「御本尊に対する信」と「誓願のお題目」が重要という事になるでしょう。

正報は依報によってつくられているという依正不二の原理はご存じですよね。

もっと詳しく指導されている所を見つけましたので、引用します。

◎一念を正報と立てれば、肉体は依報です。自身の当体を正報と立てれば、
 いっさいの客体が依報となります。
 この依報と正報の関係は、肉体の依報があって、正報の生命があるともいえます。
 また、肉体の成長は、依報たる、水、空気、食糧を取り入れて、生活しているのです。
 だから、正報は、依報をもってこれをつくるとおおせなのです。
(略)
 しかし、大事なことは、詮ずるところ、正報があって、初めて依報が存在するという
 ことを 知らなければなりません。
 現今の社会は、依報のみに重点をおいて、正報を忘却しているところに、最大の欠陥が
 ある。

(指導集 質問に答えて 279~281ページ 【十界の依正について】より抜粋)


沖浦さんの 人本仏迹に沿って言うならば
「人」を正報とたてれば、御本尊(仏)は依報といえるでしょう。

また不二なのですから「御本尊(仏)」を正報と立てることが出来るはずです。
御本尊(仏)が正報ととらえるならば、肉体も社会もまたその依報となりますよね。
ところが沖浦さんの主張では人を正報に立てて、御本尊(仏)を論じても
その逆はありえないとする考え方です。
上記の指導の

“現今の社会は、依報のみに重点をおいて、正報を忘却しているところに、
 最大の欠陥がある。”


というのと

2014年6月号の大白蓮華の指導の

“質的な観点だけで物事をとらえていったならば、人と人との関係、
 人と物の関係の大部分が、偶然の混沌の中に埋没してしまうでしょう”

は、まったく同じ事を表現を変えて指導されていることになります。

人本仏迹論(御本尊用具論)は、「物質的な観点」のみでの戯論であり

人と御本尊の関係を混沌の中に埋没させる暴論だと結論つけさせていただきます。

(続く)
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